【新潮社】
『聖少女』

倉橋由美子著 



 純真無垢な、という言葉がある。心の穢れや飾り気のない、清らかな状態のこと、心が純粋である、ということを意味するものであるが、そもそも心が純粋である、というのは、どういう状態のことを表現するものなのだろうか。

 純粋である、というのは、混じり気のないことでもある。たとえば、純粋なオレンジジュースと言えば、100パーセントオレンジからつくられた、着色料や砂糖といった不純物が混じっていないもののことを指すのだが、人の心というのは当然のことながら、オレンジジュースとは異なるものだ。産まれ出た瞬間から、周囲の環境からさまざまな情報を吸収し、またいろいろな経験を積んでいくことによって多くのことを学び、それまでの考えをあらためたり、新たな価値観を生み出したりしていく人間は、自らの心という入れ物のなかに、さまざまな要素を混ぜ入れることで、その人の個性を形成していく生き物だと言うことができるだろう。

 人はみな、産まれたときから悪人であるわけではない。また産まれたときから聖人であるわけでもない。心が純粋である、というのは、心に何もない、というのと同等なのだ。その状態を「純真無垢な心」と言い表すのであれば、人間にとって成長すること自体が、心にさまざまな不純物を抱えることへとつながる行為であり、まさに心を汚しながら人間は生きつづける、ということになってしまう。そして人は基本的に、否応なく成長する。誰も「純真無垢な心」でありつづけることなどできないのだ。

 本書『聖少女』という作品について、もし私に何か言えることがあるとすれば、それは、心を汚すことを宿命づけられた人間が、それでも「純真無垢な心」を取り戻そうとしたときに、どういう状況がありえるか、という考えのもとに書かれた虚構――聖なる実験とも言うべき作品ではないか、ということである。

「ぼく」という一人称でつづられる本書の中心を成しているのは、宮下未紀という名の女性が書いた1冊のノート、その内容である。「ぼく」は未紀と数年前に出会っているが、その後、彼女とは偶然をあてにした数度の出会いを重ねるのみで、それ以上の親密な関係を築くことができずにいたのだが、未紀の交通事故をきっかけにして、「ぼく」ははじめて未紀との関係を深めることに成功する。未紀は、交通事故で頭に負った怪我のせいで、「ぼく」のことをはじめとしたそれまでの記憶を失っていたのだ。そして、彼女のなかではすでに死んでしまった「未紀」がかつて書いていたというノートには、「パパ」と呼ばれる男との狂おしい情事がつづられていた……。

 血のつながった父親と娘が、あるいは姉と弟が性的関係を結ぶ――本書の重要な要素として、この近親相姦があることは間違いない事実であるが、未紀のノートに書かれている、ひどく現世離れした雰囲気の漂う文章の内容が、はたして本当のことなのかどうか、記憶を失ってしまった未紀に判断できるはずもない。彼女にわからないものが「ぼく」にわかるはずもなく、したがって「パパ」なる人物が実在するかもさだかではないまま物語は進んでいく。だが、その進み方はけっして外へと広がっていくような進み方ではなく、むしろ進めば進むほど内へ内へと閉じていくような感じがしてならない。それは、本書の核ともいうべき未紀のノートの内容そのものが曖昧だということもあるが、むしろそのノートを手にした「ぼく」がいた環境、かつて姉と愛し合ったという過去から抜け出すことができずにいる、ということを象徴しているのではないだろうか。

 現代において近親相姦がタブーとなっているのは、生物学的に言うなら、人間という種の多様性を保つためであると言われている。同族どおしの血をかけあわせる、というのは、その血族という系を閉じてしまうことを意味する。閉じられた系は、同じような特徴をもつがゆえに環境の変化に弱く、種としての発展性が失われてしまう。だが、それは同時に、自分たちの血の純粋さを保つことにもつながるのだ。

「だから、近親相姦はふつうの人間には禁じられているのだ。これをおこなう資格があるのは、自分の兄や妹を愛することができるほどの精神的エネルギーをもった女、あるいは男にかぎられますよ。こういう精神的王族は、自分たちだけで愛しあい、神に対抗して自分たちもまた神の一族であると主張することがゆるされるのだ。……」

「ぼく」はかつてコミュニストとして学生闘争に参加していたという過去をもっている。そして彼は、その知的な革命の精神が、けっきょくのところ自身の貧困だった環境、貧乏人の卑しさゆえのものであることを知っている。そのことについて「ぼく」は「存在的な卑しさのなかでのたうちまわっていたにすぎない」と結論づけているが、彼は、そんな自身の貧乏で卑しい系のなかに閉じこもってしまったこと――つまり姉と近親相姦的な関係を結んでしまったことを、おおいに恥じている、と考えるのは、それほど難しいことではない。

 そのノートのなかで、自ら進んで血のつながった父親と性的関係を結び、そして今、交通事故によってそのときの記憶をすべて失った未紀は、おそらく「ぼく」にとっては聖女のような存在として映ったに違いない。「精神的王族」としての資質をもちながら、心が空虚な状態――まさに「純真無垢な心」をもつにいたった未紀を所有することは、同時に「ぼく」自身を閉じた系から救うことを意味する。コミュニストとしても失敗した「ぼく」が、なにものかになるための最後の砦として、彼は未紀のノートを信じた。いや、信じたかった、と言うべきかもしれない。

 未紀のノートによって支えられている本書は、そのノートの内容が崩壊したとき、その神聖さも失われ、物語自体も無意味なものへと変貌してしまう。だからこそ、「ぼく」は本書のなかで、ノートに書かれた内容の真実を追いながら、じつは目をそむけつづけていた。そんな危うさをもった本書のなかでおこなわれている聖なる実験が、どのような結末を迎えることになるのか――純真無垢である、というのがどういう意味をもつことなのか、その答えのひとつが、本書のなかにはたしかにある。(2002.06.16)

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