【講談社】
『蒼穹の昴』

浅田次郎著 



 才能を自己利益のため、つまり名声や貨幣といったものとの交換のために使い続けると、ゆっくりと目減りしてやがて枯渇してしまう。逆に世のため人のために才能を使えば、それは血肉化し、その人の本性の一部となる――これは、内田樹という方のブログに書かれた「才能の枯渇について」というエントリーのなかの言葉である。ここでいう才能とは「天賦の才」、つまり、自己努力によって獲得した知識や技術とは異なる、生まれつきその人に与えられた力のことを指すのだが、本書『蒼穹の昴』を読み終えたときに、この方のエントリーのことを思い出したのは、本書を評するに欠かすことのできないキーワードのひとつとして、「天命」というものがあるからに他ならない。

 中国最後の王朝である清の時代、それも、映画「ラストエンペラー」で有名な皇帝溥儀の一代前という、王朝の末期に近い時代を舞台とした本書の前半は、おもにふたりの人物を中心に物語が展開していく。河北静海県という田舎の名士の次男である梁文秀と、貧農の子どもで牛馬の糞拾いをして生計を立てている李春雲は、その身分や境遇の違いを超えた友情でつながっている仲であるが、このふたりを特徴づけるものとして出てくるのが「天命」である。そしてそれは、韃靼の占星術師である老婆、白太太の予言という形をとってふたりの前に示される。

 本書における白太太の予言は非常に強力なもので、およそ外れることがない。そして、だからこそそれは天命としてその人の運命を決定づけていく。じっさい、梁文秀は日の高いうちから悪友と酒をくらったり、村娘に下品な言葉を浴びせたりする梁家のやっかい者という立場であったにもかかわらず、本命であったはずの兄を差し置いて科挙の第一次試験である「郷試」に合格するという快挙を成すのだが、そんな彼に与えられた「天命」とは、進士登第を果たし皇帝のそばで天下の政を司る、というものだった。

 いっぽうの李春雲に告げられた「天命」は、権威と富の星である昴の守護のもと、あまねく天下の財宝をことごとく手中に収める、という途方もないものである。まるで、春雲自身が皇帝にでもなるかのような壮大な予言が、はたして彼をどのような運命に導いていくのか、というのが本書の読みどころのひとつとなるのだが、同じく予言を受けた梁文秀が、科挙の本試験ともいうべき「会試」に挑んださい、まさに天命としか言いようのない体験を経て、見事進士登第を果たしてしまういっぽうで、そんな彼の試験のお供として北京の都に来た李春雲が見たものは、宦官――男としての機能を切り落としてまで宮仕えを目指そうという、文字どおり血なまぐさく、どうにも癒しがたい人間の欲への渇望の姿だった。

 李春雲、誰からも親しみを込めて「春児」と呼ばれる彼の一家は貧しく、生活は困窮している。白太太の予言は途方もなく、およそ実現不可能なものではあったが、彼にとっては唯一の生きる希望となっていた。だが、いずれ遠からず都に出て帝の側に仕えることになるだろうという輝かしい予言とは裏腹に、春児には梁文秀のような奇跡の兆候さえ見えてこない。本書を読み進めていくと、彼に与えられた「天命」には、じつは大きな裏があることがわかるのだが、そこから本書のキーワードである「天命」にこめられた真のテーマが、よりはっきりとした形をとって見えてくることになる。そしてそれとともに、春児の運命を切り開くための物語が息づきはじめる。

 待っていてはいけないのだ。やつれはてた母と、幼い妹をここから救い出すためには、一丁の鎌と、煮えたぎった油と、蝋の棒だけがあればいい。そして――最後まで気を失わぬだけの勇気さえあれば。

 物語の後半になると、清王朝やそれらの利権を求めて群がる列強諸国の動きもふくめ、中国王朝をめぐる壮大な歴史の流れに登場人物たちが翻弄されていくドラマが展開していく。西太后や光緒帝、袁世凱や伊藤博文といった歴史上の人物が数多く登場するが、ここでも本書のキーワードである「天命」は健在だ。ただし、ここでいうところの「天命」とは中国王朝の最期という天命――長きにわたり天によって選ばれた皇帝が天下を治めるという体制そのものの終焉を意味するものであり、その役割を担うという業に西太后をはじめ多くの登場人物たちが縛られている。

 この書評の冒頭で語った「天賦の才」と、本書のなかで語られる「天命」とは、それが天や神といった高次の存在から賦与される「gift」であるという点で、よく似ている。それらはあくまで天から授けられたものであって、その人自身のものではない。だからこそ、天賦の才を与えられた者が、その才能を枯渇させるか自身の血肉として体現していくかの分岐点は、そもそもその才能が何なのかを問うことができるか、そして与えられた才能を何らかの形で「返済」するという意識をもてるかどうかにかかっていると内田樹は語るが、本書における「天命」とは、ある意味でそれよりはるかに過酷なものだ。なぜなら、白太太の予言という形で告げられる天命には、基本的に誰も逆らうことはできず、またそこから逃れることもできないからである。

 それゆえに、「天命」をキーワードとする本書は、いっけんすると登場人物たちがおのれの意志とは無関係に、大きな意思の流れによって突き動かされているかのような印象をもたらす。それは梁文秀や西太后といった権勢の絶頂にあるような人物についても、また無辜の市民についても例外ではない。貧困の家系に生まれた者は、どうあがいてもその貧困から抜け出すことができないという「天命」――それは、李春雲の母親の口癖である「没法子」、どうしようもないことだという言葉に象徴されるものであるのだが、そんななかにあってただひとり、李春雲のみが「天命」をただ与えられるのではなく、みずからの手でその天命をつかみとるために行動を起こしている。それは、周りの人物がことごとく「天命」によって縛られているだけに、じつに劇的であり、また特別なものでもある。

 それはまさに、人の力が天の星をも動かすことに等しい。そしてそれは、かつては科挙に合格した進士を象徴するものであり、本書でいえば梁文秀の負うべき役割であったはずのものだ。そんなふうに考えたとき、本書における李春雲の役割がはっきりしてくる。それは、「天命」ではなく、まぎれもない「人の力」の象徴という役割であり、運命に流されるのではなく、運命に抗い、立ち向かっていく人間たちへの愛の讃歌という、もうひとつのテーマを意識させるという役割だ。だからこそ、李春雲に宦官としてのあらゆる手ほどきを施した、富貴寺の引退した宦官たちは、春児に語りかけるのだ。「昴を掴め」と。

 どうしようもない貧困のはてに、家族はおろか自身の男としての象徴さえ自らの意思で捨ててしまったひとりの少年が、宮廷や諸外国による醜いまでの権謀術策に翻弄されながらも、なお他人を思いやるという人としてのやさしさを失わず、西太后が唯一心を許すことができる側近にまで登りつめていくという本書のストーリーは、私たちに人間のかぎりない弱さと強さをあらためて教えてくれる。天下が他ならぬ人の力に託されていく――そのダイナミズムを、ぜひとも堪能してほしい。(2012.04.05)

ホームへ