【文藝春秋】
『蝉しぐれ』

藤沢周平著 



 小さい頃は誰でも、両親をはじめとする世の大人たちの言いつけを理不尽に感じたりするものである。夕方までには家に帰ること、むやみに間食はしないこと、遊んだ後はきちんと片付けること、夜の9時になったら寝ること――そこには常に、何でも自分の思いどおりにやってみたい、という欲求の塊である自我と、社会的秩序を維持するためにその欲求を規制し、押さえつけようとする老獪な力との衝突がある。まだ世の中のしくみについて無知であるがゆえに無謀で無責任でもある子どもは、何度もその結果としての失敗や挫折を繰り返しながら、徐々にやって良いことと悪いことの区別をつけ、馬鹿なことをしないだけの分別を身につけていく。

 大人になる、成長する、というのは、世の中のしくみを理解し、失敗や挫折を繰り返すことのない、賢い人間になることである。だが、それは逆にいえば、社会が自分たちを支配するために押しつけてくる都合のいい価値観に迎合し、少なくとも世間体の上では波風を立てることなく生きていく、消極的な人間になる、ということでもある。社会制度やそのときの価値観もまた、人間の手によって生み出されたものである以上、絶対の正義ではありえない。むしろ一部の人間の利益のためだけに機能している場合のほうが多い、というのが実情だろう。

 賢く生きることが常に正しいというわけではない。おそらく、私をはじめとする大人の誰もがそのことに気づいている。だが、気づいていながら無視したり、忘れたふりをしたりして、自分のささやかな生活を守っている、おろかしい大人たち――本書『蝉しぐれ』は、ある少年の成長を描いた時代小説だが、そこには無限の可能性に満ちた「子ども」から、ちっぽけで愚かしい「人間」へと変わっていくときの、哀愁にも似た想いに溢れている。

 本書の舞台となる海坂藩は、著者藤沢周平が生み出した架空の世界であり、時代もじつは、江戸時代だろうということ以外にはっきりしていない。過去の時代をとりあつかう歴史小説、ことに時代物としては珍しく、史実を匂わせる要素をできるかぎり廃し、しかし江戸時代――というより時代物の雰囲気は残したまま、著者の想像力が充分に発揮される場として機能する海坂藩は、どちらかと言えば時代ものというよりも、むしろファンタジーに近いものがあると言える。

 だが、本書の物語を読み進めていくうちに、読者はそこに、たしかな自然の息吹があり、季節の移り変わりがあり、そして人々がそこで生きて生活している様子を感じとることができるに違いない。とくに自然や季節感に関する豊富な描写は、そのまま海坂藩をとりまく自然の豊かさを表現するものだ。組屋敷の裏を流れる澄んだ小川、夏はうっそうと青葉を茂らせ、秋には色づき、そして地面を落ち葉で埋め尽くす雑木林、丘の向こうまで広がる稲穂の海、流れゆく雲、そして照りつける強い日差しと蝉の声――今はもう、大人たちの心からも忘れ去られようとしている、どこかなつかしい自然の中で、少年藩士の牧文四郎は大人への道を歩みはじめる。

 親友である小和田逸平や島崎与之助との友情や、普段は静かだが、城に勤める役人として藩の抱える村々や森林、田圃を守ることを誇りにしている父への尊敬の念、友達づきあいにうるさいが優しい母、そして隣家の幼馴染であるふくへの淡い恋心など、いかにもといった青春の要素が文四郎の周囲にちりばめられているが、大きな権力を持つ一部の大人たちによる思惑は、そうした環境を激変させ、文四郎自身にも変化することを強制する。その最たる例が、藩内部の派閥争いのなかで、父の助左衛門が切腹を申し付けられることと、幼馴染のふくが、江戸屋敷への奉公のため、文四郎のもとから離れなくてはならなくなる、というふたつだ。

 そのとき文四郎は、父の最期の面会のさいに、父を安心させる言葉をかけることができず、あとでそのことを深く後悔し、ふくとの別れのときには、その場に居合わせることもできず、その後の長い年月にわたって、心残りな出来事として心の奥にしまいこむことになる。もちろん、それは文四郎がまだ少年であったがゆえの失敗であり、父の切腹もふくの奉公も、彼にはどうすることもできない、理不尽とも言うべき出来事であるのだが、そうであればこそ、文四郎自身のできる範囲で、やれるだけのことをやっておきたかったはずであり、それこそが若さというものだろう。

 そういう意味で、著者が厳格な身分制度に支配された江戸時代を舞台にした、というのは非常に興味深いものがある。なぜなら、文四郎にとって「理不尽な社会」というのは、海坂藩を牛耳っている一部の権力者――しいては身分制度そのものであり、その単純さゆえに、私たちは容易に文四郎に感情移入し、そんな彼を抑圧しようとする権力者たちを敵とみなす、勧善懲悪的な構造ができあがるからだ。当時の武家社会においては絶対といっていい身分制度によって翻弄されていくおのれの境遇を、運命として受け入れ、平静に生きていこうと努めながらも、それでもなお、どうにかできなかったのかと悩み、苦しむ感情を抑えきれずにいる文四郎の、ほとばしる若さの光は、権力構造という名の闇が暗く重苦しいものであればあるほど、まばゆく輝き出すものである。

 そして、文四郎は行動する。大人になり、世の中のしくみを充分に把握し、その選択があるいは、より大きな失敗や挫折を招くものであるかもしれないと恐れつつも、なお自分にできることを精一杯やろうとする姿は、なんとも清々しいものを感じずにはいられない。それは、自分が大人という名の、ちっぽけな人間だと認めること――何度も失敗や挫折を繰り返し、後悔の連続である人生を、まるごと自分のものとして肯定し、受け入れて、なお前進することを決意した者だけが持ち得る晴朗さなのだ。

 無限の可能性に溢れる「子ども」から、一個のありふれた「人間」へと「成長」することを余儀なくされる私たちの人生は、たしかにどこかやるせない想いをはらんでいるものだ。だが、これからの人生でもおそらく何度も体験することになるであろう、失敗や挫折の連続を全否定するのではなく、また後悔することに甘んじるのでもない、真に大人としての生き方が、たしかにこの世に存在することを、本書は教えてくれるはずだ。(2001.11.14)

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