【中央公論新社】
『黎明に叛くもの』

宇月原晴明著 

背景色設定:

 暗殺者を意味する英語「アサシン」が、もともとはイスラム圏の暗殺部隊を呼称するものであったという話をご存じだろうか。伝説によれば、その暗殺部隊の長たる「山の長老」なる人物が、要人暗殺のさい、送り込む刺客に麻薬を使って陶酔させ、死をも恐れぬ暗殺者に仕立て上げたということで、アサシンの語源が麻薬である「ハシシ」から来ているという話もあるほどである。じっさいには多くの誇張が混じっているらしいが、麻薬の幻覚作用で神の楽園を見せられ、使命に忠実な暗殺者に変えらてしまうという話は、ある意味で幻想的な要素を数多く含んでおり、それゆえに恐ろしいというよりは魅力的だという感情を引き起こす。

 このイスラム圏の暗殺者集団の伝説を怪しげな呪法と結びつけ、日本の戦国時代のなかに融合させるという離れ業を成し遂げた作品がある。それが今回紹介する本書『黎明に叛くもの』であるが、その冒頭における信貴山城内の楼閣の描写などは、まさにマルコ・ポーロが『東方見聞録』に書いた、「山の長老」の宮殿を髣髴とさせるものがある。

 人を圧する輝きを放つ瞳なら、いくつも見てきた。――(中略)――しかし、こんな霞のかかった瞳は初めてだ。まるで夢見るような、潤んでいるかのような、何か陰惨なものがこの老体の内側でちろちろと燃え続けているかのような、油断ならない二つの目。

 明智光秀とともに信貴山城内に赴いた腹心の斎藤利三によって、上述のように評されているのは、城の主たる松永久秀のことである。坂本城で頻発するようになった怪異を静めるため、最後の手段として光秀が頼ることになった人物でもあるが、こうした経緯からもわかるとおり、本書における久秀は、戦国武将のひとりというよりは、怪しげな術を用い、権謀術数で世のなかを裏から操る得体の知れない「妖人」という立ち位置を与えられている。

 史実においても暗殺と裏切りを繰り返した極悪人というイメージのある松永久秀を主人公に、その妖術に次第に取り込まれていく明智光秀、そして「美濃の蝮」たる斎藤道三の運命が絡み合うようにして展開していく本書は、歴史小説というよりは、むしろ伝奇小説として分類されるべき作品だと言える。何しろ久秀と道三が幼少の頃からの知り合い、それもイスラムの秘法たる「波山の法」の使い手として訓練された者同士であり、久秀にとって道三は兄弟子にあたるという設定なのだ。

 孤児として拾われ、幼い頃から任務としての暗殺稼業をつづけてきた久秀と道三は、やがて主たる「老師」を殺害後、世に出て天下を二分するような勢力となることを誓う――そうしたバックボーンをもとに、史実を物語として再構築していく本書は、まぎれもない日本の戦国時代を舞台としていながら、西欧やイスラム圏のオリエンタルな要素をふんだんに取り込んだ、独特な世界を展開していく。こうした世界観は、たとえば高野史緒の諸作品に描かれるサイバーパンク的ロシアのような、どこか怪しく官能的な雰囲気を思わせるものがあるのだが、なによりも特記すべきなのは、松永久秀の倒錯した人格設定である。

 呪術の兄弟子たる斎藤道三と天下を二分する、というあまりに大きな夢を抱いた久秀ではあるが、それは純粋に彼の夢というよりは、むしろ道三が秘めた夢にひきずられていたところがある。久秀にとって天下などさほど重要なものではなく、身近な存在としての道三こそが世界のすべてだというのは、本書を読み進めていくとおのずと見えてくるものであるが、言い方を変えるなら、世界と自分とのつながりを見いだすことができず、自身の存在意義を他人にあずけてしまっているという意味で、人間として未成熟な部分を久秀はいつまでも抱えている。波山の法のなかでも禁じ手とされていた傀儡「果心」などは、彼の幼い心を象徴するものとして、物語が進むにつれて使い手たる久秀の支配を超え、まるで自我をもつがごとく身勝手なふるまいをしつづける。

 生きるための手段として会得した呪法について、道三は不要のものとして表面上は捨ててしまったのに対し、久秀は常に呪法とともにあり、むしろその力を道具として使い続けるという道を選んでいる。その呪法の恐ろしさと反比例して、久秀の人間としての未成熟さ、倒錯した人格がよりいっそう際立ってくるところに、本書の絶妙さがある。

「――仏法では自他の別をせぬという。すべては縁じゃそうな。それもわかる。が、我と人の別を立てぬことが、なぜ、他を思いやり利する心を生むかわからぬ。我が身のごとくあればこそ、人を害してよいとも考えられるではないか」

 呪法はあくまで呪法でしかなく、それを操れるからといってその当人の人間性が優れていることにつながらない――ともに似たような境遇にありながら、道三と久秀の歩む道が決定的に異なっていることに、もし理由をつけるのであれば、そのあたりに自覚的かどうかの違いである。そしてその違いは、やがて天下の覇者としてその頭角をあらわしてくる織田信長に対する態度の違いとして、ふたりの相違をより鮮明なものとしていく。まるで、日の出とともに夜空に輝く星々の光をかき消してしまう日輪のごとく、強烈な光を放つ天下人――そんな人のもとに表面上は仕えながらも、その光を憎み、異形の力で消してしまおうと画策する明けの明星、それが久秀というキャラクターの根底にあるものだ。

 だからこそ、本書のタイトルである「黎明に叛くもの」という言葉が大きな意味をもつ。夜明けという自然の摂理に逆らう、それは、生き物としての本分そのものに背を向けるということであり、そういう意味で久秀は文字どおりの「妖人」でなければならないのだ。だが同時に、私たちはその反逆があまりに空しいものであることも知っている。

 長慶が逝き、義輝が逝った。信長もまた、逝かねばならぬ。
 新しき日輪のことごとく沈んだ果てしない夜に、古の明星が独り君臨するさまを、久秀はひたすらに思った。

 なぜ一度は謀反を起こした久秀を信長は許したのか、信長のライバルと言うべき重要な武将が、ここぞというときに死んでしまうのはなぜなのか、そしてなぜ光秀は信長を裏切ることになったのか――歴史の闇で暗躍する何者かの存在、という設定は物語として大きな魅力であるが、本書には一見すると荒唐無稽な要素を数多くちりばめながらも、まるで麻薬のごとく読者の心を飲み込み、物語の世界に引き込んでしまうだけの怪しい力がたしかにある。はたしてあなたは、このめくるめく幻想世界の果てに、どのような景色を見いだすことになるのだろうか。(2014.08.10)

ホームへ