【新潮社】
『ペンギンの憂鬱』

アンドレイ・クルコフ著/沼野恭子訳 



 ペンギンといえば、南極といった極寒の地に住む飛べない鳥のことであるが、もし私たちがペンギンの姿を拝めるとすれば、野生のものではなく、おそらく動物園か水族館で飼育されているペンギンということになるだろう。あるいは私たちにとって、野生で生きるペンギンよりも、どこかの施設で飼育されているペンギンの姿のほうがリアリティを感じさせるものがあるのかもしれない。もちろんペンギンにしてみれば、動物園や水族館という場は彼らの本来いるべき環境ではなく、それこそ不自然きわまりない状態であることは間違いないのだが、もしそのような場がなければ、おそらく私たちの大半がペンギンの姿を目にする機会もなく一生を終えることになるに違いない。

 ペンギンはたしかに飛べない鳥であるが、彼らがじつは、水の中ではまるで空を飛ぶかのごとく自在に動き回ることのできる動物であることを、とあるテレビ番組のなかで目にしたことがある。それは野生のペンギンが海の中をビュンビュン泳ぐ様子を映した、なかなか貴重な映像だったが、そのペンギンたちにとっての本来あるべき姿は、私の頭のなかにあるペンギンのイメージ――地上をヨチヨチと歩く、どちらかといえばコミカルなイメージ――とはずいぶんと異なっていて、少しばかり妙な感じがしたことを覚えている。そしてそのとき気がついたのは、私たち人間にとってのリアリティが、けっして物事の真実を映し出しているわけではない、というひとつの事実である。

 リアリティと真実とは、必ずしも一致するわけではない。だが、何にリアリティを感じ、物事の真実の形がどのようなものであれ、それらの大半は私たちの日常生活にたいした影響をおよぼすわけではない。ペンギンの本来あるべき姿がどのようなものであれ、とりあえず私たちがこの世界で生きていかなければならないことに、なんら変わりはないのだ。

 この国も奇妙なら、ここの生活も奇妙だ。でも、なんでそうなのか理由を知りたいとも思わない。ただ生きのびたいと思うだけだ……。

 本書『ペンギンの憂鬱』にも、そのタイトルにあるようにペンギンが登場する。もともと動物園で飼われていたものであるが、経営難で育てていくことができなくなったため、欲しい人に譲り渡されることになった皇帝ペンギンの一羽である。現在の飼い主であるヴィクトル・アレクセーヴィチは、ウクライナの首都キエフでひとり暮らしをしているさえない小説家。ガールフレンドに去られたあとにやってきたそのペンギンは、当然のことながら彼女の代わりになりうるはずもなく、むしろ孤独感がいや増すような結果となったが、「今では孤独がふたつ補いあって、友情というより互いに頼りあう感じ」で暮らせるようにはなっている。

 物語はその後、ヴィクトルのもちこんだ小説の原稿に目にとめた「首都報知」新聞の編集長から、まだ生きている大物政治家や財界人といった著名人たちの「追悼記事」を書くという仕事を引き受けることになり、そのおかげで安定した収入が得られる生活をおくることになるものの、その追悼記事を書かれた人物が遠からず本当に死亡していったり、彼の身の回りの人たちが急に身を隠したりといった、どうにもきな臭い空気がたちこめるようになる、という展開を見せ、そういう意味ではちょっとしたミステリー仕立ての様相を呈する本書であるが、ひとつ特徴的なのは、そうした不穏な雰囲気を感じつつも、主人公であるヴィクトルが、自身の日常生活に大きな支障をきたさない、という理由でとりあえず現状の生活をつづけていくことに甘んじていこうとする点である。

 さきほど、ペンギンが野生のなかで生き生きと活動している姿にあまりリアリティを感じない、といったことを述べたが、ペンギンが誰かの個人的なペットとして、家の中で飼われているという設定もまた、そもそもリアリティを感じさせないものである。それは想像してみるとかなりシュールなイメージさえ喚起されるのだが、興味深いことに、ヴィクトルにとってペンギンの存在がほぼ唯一といっていい「リアル」を形成する要素となっている。ヴィクトルの生活と現実とをつなぐ、ペンギンという異質な要素――物語のなかで、彼の生活はその異質な要素が軸となっているかのように展開していく。失踪した友人の娘であるソーニャを預かり、彼女を世話するためのベビーシッターとしてニーナを雇い、やがてニーナと寝るようになり、一見すると本当の親子であるかのような日常生活がつづいてはいくが、それはあくまで上辺だけのものでしかなく、お互いがお互いを依存しあうような関係でしかない。そして、それでも日常は終わらない。とりあえず、今のところは。

 すべてが順調にいっている。いや、順調にいっているような気がする。どういう状況を「正常」と呼ぶかは、時代が変われば違ってくる。以前は恐ろしいと思われていたことが、今では普通になっている。――(中略)――だれにとっても、そう、自分にとっても、大事なのは生き残るということ。どんなことがあっても生きていくということだ。

 本書のなかでは、しばしば街中で銃声がとどろき、また泥棒が罠にかかって命を落としたりといった事態が起こるが、たとえ死体が目の前にあったとしても、そこに住む人々はまるで酔っ払いをあつかうかのような態度しかしめさなかったりすることがある。通貨についても、あるときはドルだったり、あるときはルーブルだったりと、なにかと不安定なところがある。本書の「訳者あとがき」にもあるように、著者の出身地であるウクライナは、かつてはソ連という巨大なひとつの国のひとつとして統合されていた国のひとつであり、20世紀末を舞台としている本書においては、まだまだ国としては不安定な状態にある。かつてあたり前だと思っていた価値観が、あるときを機に完膚なきまでに崩れさっていくという経験は、私たちの住む日本の小説においてもわりとよくあるテーマのひとつではあるが、ソ連崩壊という、まさにひとつの国が消滅するという不条理をまのあたりにしたであろう著者のことを考えたとき、それでも自分たちは生きていかなければならない、という本書の言葉の重みがズシリとのしかかってくるのを感じずにはいられない。

 そしてそのとき、本来であれば南極にいるはずのペンギンが、動物園という、私たちがかろうじてリアリティを感じることのできる場所さえも追い出されて、人間の住む家のなかで暮らしているという不条理に、さらにはそんな不条理な状況にあって、それでも日々の生活を淡々とこなしていく姿が、信じるべき価値観や信条といったものを見失った自分たちの姿と重なってきたとしても、なんら不思議なことではないのだ。

 あきらかに、どこかおかしなところがあるにもかかわらず、それでもなお続けられていく日常――そんな彼らの姿は、あるいは問題をかかえていながら自らの力で解決しようとしないと非難されるべきものがあるのかもしれない。だが、そもそもあまりにもちっぽけで無力な存在にすぎない人間のひとりである私たちが、はたしてどれだけのことができるというのだろう。そういう意味では、私たちもまた、動物園を追い出されたペンギンとたいした違いなどないのかもしれないのだ。(2005.07.14)

ホームへ