【朝日新聞社】
『パンツが見える。』
−羞恥心の現代史−

井上章一著 



 私のなかで、女性が身につける下着は「パンティ」という単語と強く結びついている。「パンツ」でも「ショーツ」でも、ましてや「ズロース」でもない。年頃の女の子の秘所を覆う、きわめて接着面積の少ない布切れ――それが「パンティ」というものだという認識は、とくに意識する必要すらない、ごくあたり前のものとして受け入れていた。私が子どもの頃に連載していた鳥山明の漫画「DRAGON BALL」においても、プーアルが神龍にほしいと望んだのは「ギャルのパンティ」だったのだ。

 だが、いつの間にか「パンティ」という呼び方に、どこかしら古めかしい印象がつきまとうようになったと思うのは、はたして私だけだろうか。いや、じっさいに小説や漫画などにおいて、「パンティ」という言葉を見かける機会はずいぶんと減ってきたように思う。代わりに台頭してきたのが「パンツ」か「ショーツ」という言葉なのだが、なぜだろう、女性のスカートの下からほんの一瞬だけ拝むことのできる下着は、「パンティ」という単語だからこそ喜ばしいものであって、「パンツ」や「ショーツ」では、そのありがたみが薄れてしまうように思えてならない。たとえ、その対象とするものがまったく同じ形状のものであったとしても、である。

 一九五七(昭和三二)年には、日本でもスキャンティという名のパンツが、発表された。スキャンティは、数量などがとぼしい状態をさす英語の形容詞である。それを、面積不足の観もあるパンツの名称に、採用したわけだ。
 これが、スキャンダルをよぶパンティとしてさわがれたことは、下着史の常識である。

 今回紹介する本書『パンツが見える。−羞恥心の現代史−』は、パンツが見えること、あるいは見られることに対する男女の認識の変遷について考察した、きわめて真面目な研究発表である。男性は、パンツが見えることを喜ぶ。女性は、パンツを見られることを恥ずかしがる。それは私が「パンティ」という単語を一般女性の下着を指す名称として認識しているのと同様、ごく常識的な感覚として誰もが持ち合わせているはずのものであるが、著者はその認識にメスを入れる。男はなぜパンツが見えると喜ぶのか、女性はなぜパンツを見られると恥ずかしがるのか――著者をしてこうした疑問をあえて挙げさせたもののひとつとして、日本の近代から現代にかけて移り変わっていった、女性の服飾の歴史観がある。

 物事にはかならず何らかのはじまりがある。それが歴史を知るための第一歩であるが、そうした歴史をたどっていくと、ほんの何十年か前には今の常識が常識ではなかった事実が浮かび上がって驚くことがある。女性のパンツについても同様で、そもそも和服が日常着だったころには、女性の下着とは腰巻であって、陰部を覆い隠すタイプのパンツなど存在していない。仮に存在していたとしても、一般庶民のものとして浸透していたわけではない、という歴史的事実に突き当たることになる。

「白木屋ズロース伝説」というものがある。一九三二年十二月、東京日本橋にあった白木屋百貨店で起きた火災で、ビルの上の階に取り残された女店員が命綱を使って地上へと避難するさいに墜落死することが続出したという。それは、野次馬たちに下から陰部を覗かれるのを恥ずかしがるあまり、着物の裾を押さえようとして命綱から手を離したからであり、パンツさえ履いていればそんな悲劇は避けられた、だから女はパンツを履くようになったのだという主張なのだが、パンツを履かないことが当時の常識だった時代に、女性の羞恥心の感覚が今とまったく同じと考えるのは、あまりに無理があるのではないか、という著者の疑問が出発点となっている。

 本書はパンツに対する男女の認識の変遷を追った本であり、羞恥心の移り変わりを調査した書であるが、同時に女性の下着の歴史を綴った資料でもある。かつては女性の下着の代名詞だった「ズロース」は、いつごろ日本にお目見えして、いつごろからその着用が喧伝されるようになったのか、それはどのような形状で、そのときの女性側の反応はどのようなものだったのか、そして履くことがあったとすれば、どのような意識によるものなのか――パンツを見られることへの恥ずかしさの起源を調査するために、その対象となるパンツそのものへと焦点が当てられるのは、ごく当然の帰結であり、またそうした資料としての面白さもあるのはたしかであるが、それ以上に本書のテーマとして重要なのは、「白木屋ズロース伝説」への異議申し立てによる発想の逆転である。

 彼女たちは、陰部の露出が恥ずかしくて、パンツをはきだしたのではない。はきだしたその後に、より強い羞恥心をいだきだした。

 もともとパンツを履くという習慣をもちあわせていなかった女性たちが、履くことで羞恥心を喚起してしまう下着とは、いったいどういうものなのか――本書の特長のひとつとして、そうしたパンツにかんするさまざまな側面を検証するために、じつに数多くの文献をとりあげている点がある。とくに小説の描写をとりあげることが多いのだが、虚構だからと切り捨ててしまうのではなく、むしろその小説が書かれた時代における、世間一般のリアリティを映し出す鏡として重要視している姿勢が見てとれる。そしてその視点は、SFやファンタジーといった特定のジャンル以外のものであれば、けっして的外れでないことは、一介の読書家であればうなずけるものだ。

 本書を読んでひとつ気づいたのは、見えてうれしいパンツ、見られて恥ずかしいパンツという男女の認識の象徴として、「パンティ」という単語が機能していたということである。ということは、「パンティ」という言葉に今の私が感じ取る古臭さは、そのままパンツの認識への古臭さ、ということにもなる。今現在、男性のパンチラ崇拝はどの程度のものなのか、そして女性のパンチラへの羞恥心は、どこまで維持されているのか――女性の下着が「パンティ」から「パンツ」に代わっても、それでもなお変わらないものがあると信じたい気持ちでいっぱいである。(2011.12.18)

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