【新潮社】
『パンドラの火花』

黒武洋著 

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 タイムトラベル、あるいは時間跳躍をテーマにした作品は数多くあるが、現在という時間を生きる人が仮に過去のある時点に時間跳躍することができるとして、その人の意思によって過去を改変するという出来事は、はたして本当に過去を改変することにつながるのか、ということをふと考えることがある。ひとつわかりやすい例を挙げるとすれば、映画「ターミネーター」および「ターミネーター2」では、未来人による時間跳躍というひとつの結果が、いつのまにかそのありうべき未来を引き起こす原因として機能する、という現象が起こっていた。つまり、ターミネーターが過去に跳躍しなければスカイネット構想のもととなる技術は発生し得なかったし、それを追って未来人が過去に来なければ、未来における人類の英雄となる人物も、そもそも生まれてこなかったことになる、というものだ。

 時間跳躍には常にその因果関係の逆転や変質といった問題がつきまとう。過去を改変し、そのことによってあるべき現在をより良い方向に変えていきたいという意思が、いつのまにか歴史の必然として組み込まれてしまう。つまり、そうした意思をもつこと自体がすでに避けることのできないものとして、その人をがんじがらめにしてしまうという矛盾は、ともすると人間の意思などまるで意味のないもの、極端な運命論へと人を導きかねないものでもある。人は、自らの意思で自分自身を、あるいは世界を変えていくことができるのか、あるいはそうした変化の意思そのものさえも、すでに定められた必然でしかなく、時間跳躍ができるできないに関係なく、物事というものはなるようにしかならないものなのか――本書『パンドラの火花』を読み終えた私がそんなことを考えるにいたったのは、そこに登場する人たちの、とにかく生きたい、生きのびたいという強い意思をたしかに感じたからに他ならない。

 あらゆるものを撥ね付け受け付けようとしない、分厚く強固な壁。だが、その壁は、その年齢になって突然変異のように膨張し硬度を増した訳では、決してなかろう。――(中略)――ならば、どういった経緯で、柔らかい箇所、薄手の部分、風が通り抜ける隙間を失っていったのか。その原因全てが、親や大人や友人や環境などの、外のみにあるのか。

 この書評の冒頭でタイムトラベルのことに触れたが、近未来の日本を舞台とする本書のなかでは、過去へ時間跳躍する「時空移動システム」が実現しており、ある国家的プロジェクトのためにそれが利用されていた。それは、過去に死刑が確定し、まだその刑が執行されていない死刑囚に対して、「時空移動システム」をもちいて過去の自分と会い、結果として自身を死刑にいたらしめる犯罪を未然に食い止めるべく説得する、というもの。未来の日本では死刑そのものが廃止されており、その結果として刑務所や拘置所に収容される犯罪者たちの数はその許容量を超える状態となっていた。このプロジェクトは、そうした現状の問題を打開しようという国の意図もおおいに絡んだものであった。

 いつ執行されるかもわからない死刑を待つしかない死刑囚にしてみれば、もし過去の自分への説得が成功すれば、彼の過去の犯罪そのものがなかったことになり、晴れて自由の身になれる最後の機会が与えられることを意味する。これまでの拘置所での生活態度などから、過去の犯罪を心から後悔していると判断された死刑囚を厳選し、三日間という期限つきで過去に時間跳躍させる――文字どおり必死になって過去の自分を説得する死刑囚たちの意思は、はたして相手に届くのか。

 起こってしまったことは、けっして取り返しがきかない。そんなことはわかりきったことではあるが、それでもなお人は、あのとき別の選択をしていたら、という「ありえないif」に思いを巡らせずにはいられないときがある。だが同時に、もし過去に時間跳躍できたとして、過去の自分に未来の犯罪をやめるように説得することが、はたして可能なのかという問題もはらんでいる。自分のことは自分がよくわかっている。過去に犯罪を犯し、今はそのことを心から反省し、またおおいに後悔してもいる自分の説得なら、きっと聞き入れられるに違いない――それは、ある意味で真実だ。だが、本書のテーマはそうしたいかにもな人間ドラマよりも、むしろその反対の方向にベクトルが向いていると言うことができる。つまり、たとえ未来の自分が相手であったとしても、人はそんなに劇的に変わることができるのか、という命題である。

 世のなかのあらゆるものは、日々変化している。それは人間であっても例外ではない。だが、何かを劇的に変化させるためには大きなエネルギーを必要とするように、ひとりの人間があるときに劇的に変化するためには、よほどその人に大きな衝撃を与えるような出来事が必要となってくる。それははたして、自然なことと言えるのだろうか。逆に言えば、目に見えるほどの変化というものは、日々の小さな変化の積み重ねがあるからこそのものであって、そうした下地のないところに、急な変化を期待しても無意味ということでもある。それでも、最終的に説得が成功したかどうかは未来に戻るまではわからないことや、三日間という期限、そして何より、成功しなければ待っているのは死だけであるという究極の二者択一という要素は、ある種のゲーム性を思わせるものがあり、そうした点で読者の意識を惹きつけるものがあることはたしかだ。

 私が本書を読んで感じたこととして、「とにかく生きたい、生きのびたいという強い意思」と書いた。人は誰もが多かれ少なかれ、少しでも長く生きたいと日々あがいているものだが、そうした人間の生への欲求は、かならずしも人を良い方向に導くとはかぎらず、むしろ人間のあさましさや意地汚さといった負の部分をむきだしにするものでもある。本書では、三人の死刑囚が登場するが、彼らが説得の果てにたどりついて結末は、人間が変わっていけることの可能性というよりは、むしろ人はそうそう簡単には変われない、変わりようもない、という絶望感を引き立たせるものだ。だが、そうした負の部分にも目を向けたうえで、それこそが人間であり、私たちが生きるということでもあると、本書は訴えている。そして、だからこそ死刑囚とともに過去に跳び、彼らの行動を監視するだけでなく、説得を成功させるべくさまざまなサポートをする――むしろ、そのためだけに生きているような「時空監視官」の存在が、より際立ってくることになる。

 死刑囚、過去の自分、そして「時空監視官」と、それぞれを主体として今回の時間跳躍での顛末を描く本書は、変わらないことへの絶望感を読者に植え込みながらも、それでもなお人は変わっていくことができる、その可能性はけっしてゼロではないのだ、というほんのわずかな希望を残すことを忘れない。本書のラストに待ちかまえている意想外な出来事と、ひとりの「時空監視官」がとった行動もふくめ、人類が開いてしまったパンドラの箱の底には、やはり希望があるのだと信じたい。(2009.04.23)

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