【新潮社】
『熱帯植物園』

室井佑月著 



 以前読んだ、あるフリースクールの学園長が書いた本のなかで、「親たちは自分たちが体験した苦労を子どもたちにはかけまいと、与えられるものはなんでも与えて育ててきたが、その思いやりが、逆に子どもたちから生きていくための夢を奪っていることに、気づいているだろうか」といった文章が載っていたのを覚えている。
 生きる、という行為は本来、それだけで大変なことであるはずだ。昔も今も苦労話というものはネタの絶えることのないものだし、自身の過去をふりかえっても、けっして裕福なわけではない両親が、よく私をここまで育て、バカ高い私立大学の費用まで出してくれたものだと、現在、日々の生活を少ない給金でやりくりしているひとり暮らしの私は、そのことをつくづく感謝しないではいられない。

 モノが溢れている豊かな国――今の日本を生きる10代の少年少女たちのことについて、私はメディアから一方的に流されてくる情報以上のことはわからない。だが、村上龍は『希望の国のエクソダス』のなかで、少年の口を借りて「この国にはなんでもある。だが希望だけがない」と語っている。とくに苦労しなくても生きていけるし、欲しいモノはたいてい手に入ってしまう――そんなある意味、恵まれすぎたなかで生きる彼らにとっての「夢」や「希望」とは、いったいどのようなものなのだろうか、とふと考える機会は、以前よりもずっと多くなっているように思える。

 本書『熱帯植物園』に登場する雨笠由美もまた、ただ生きるという行為については何ひとつ不自由することなく生きている女子高生のひとりである。だが、そんな恵まれた環境とは裏腹に、彼女の生活ぶりはあまりにも殺伐とした印象ばかりが残るものである。出世街道からこぼれ落ちた30代の銀行員である貴史と知りあってセックスし、髪を赤く染め、学校もろくに行かず、また勉強もせず、そしてそんな娘の生活を知っていながら、とがめないばかりか、むしろ面白がっているふうでさえある、金だけは持っている放蕩者の父親――どんなに身勝手な行為におよんでも、誰も彼女を叱ったりしないのは、由美との関係にある種の打算がはたらいているからだ。

 言うまでもないことだが、恋人どおしの関係や親子の関係に生じる愛情に、打算やギブアンドテイクの論理などあってはならない。どんなに体を重ねても、貴史にとっての自分は恋人じゃない。どんなにものわかりが良くても、父にとって自分は大切なひとり娘として見られていない、という事実に、由美は敏感だ。今時の女子高生の生態を生々しく描いた本書には、ときにレイプや性行為のリアルな描写が挿入されていて衝撃的ではあるのだが、本当に衝撃的なのは、まるで金か何かのように、愛情を切り売りするような感覚の大人や、あくまでうわべだけのつき合いでしかない同級生たちにかこまれた由美が、たしかなのは自分の若い肉体だけである、そしてその若い肉体も、近いうちに失われてしまう、という現実を、いたって冷静に受け止めてしまっている、という点だろう。そしてその冷静さの裏には、狂おしいまでの焦燥に駆られた、非常に危うい心がある。

 子どもでもない、といって大人でもない思春期という年代――体の成長に心がついていかない由美たちの年代は、その存在自体がアンバランスなものであるが、その不安定さは、父親の愛人、「由美」という、同じ名前の女性とのつきあいによって、ますます際立ってくることになる。

「女じゃないのにセックスした」という一文からはじまる本書の中で、由美は何度か自分がただの「少女」であって、「女」ではないことを思い知ることになる。いっぽう、「由美」はあきらかに「女」である。そして、たいしてカッコイイとも思えない、金があるだけがとりえのような父親の「恋人」であることを、何のてらいも打算もなく言ってのける彼女に対して、由美は特別な感情を抱くようになる。自分にはないたしかな「個」を持っている「由美」――自分と同じ名前の権利をあっさりと奪い去り、自分の源氏名である「リエ」を名乗らせる彼女に比べ、由美にとってたしかなものは、生々しい肉体の感覚、セックスしかなく、しかもそのセックスも、「あと二か月もすれば飽きてしまう気がする」とまで言ってしまう。名前さえあっさり交換可能な、薄っぺらい「個」を抱えた由美が、何を思い、これからどうなっていくのか――その視点が冷静であればあるほど、物語を包む殺伐とした雰囲気はいや増していく。

「若さ」という、そのうち消えていくブランドだけが唯一の価値観だと思いこんでしまった由美の複雑な焦燥と諦念は、本書に収められた他の短篇にも共通したテーマだと言える。それは、同級生とのセックスや、自殺や、あるいはアルコールへの依存という歪んだ形をとって表われてくるが、その裏にあるのは常に、「本当に、それでいいのかな」という疑問符だ。誰かにはっきり否定してほしい。本当に価値あるものは何なのか、教えてほしい。しかし、誰もそれには答えてくれない。周囲に溢れかえるほどの人がいるにもかかわらず、孤立している自己――考えてみれば、本書の中には真の意味でのコミュニケーションは存在しないのかもしれない。レイプなどは一方的な行為の典型的な例だが、それ以外のさまざまな人とのかかわりもまた、程度の差こそあれ一方通行なものばかりだ。性描写が生々しくあればあるほど、痛々しいまでの孤立感ばかりが高まっていく作品として、佐藤亜有子の『ボディ・レンタル』などが有名だが、本書について言えば、『ボディ・レンタル』ほど自身の「モノ」化が露骨なわけではない。だが、それは逆に、「モノ」にすらなりきれていない、ということでもある。

 不用意にテレクラから呼び出した男性にレイプされながら、由美は思う。

 十六歳の、
 田園調布に住んでる、
 ケーキが好きで、
 数学が苦手で、
 身長は百六十六、
 名前は由美。

 そして「あたしに違いなかった」と続く。身体的感覚をもってしか、自分が自分であることを確かめられない由美が、自分の代わりに自分をやってくれていた「由美」との関係が破綻したとき、嘘ばかりで固められたこの世界と、そして自分自身と、どのような形で向き合うことになるのか――今時の10代の少年少女が抱く「夢」や「希望」の変異体が、本書に中にはたしかにある。(2002.05.06)

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