【徳間書店】
『汐のなごり』

北重人著 



 ミステリーの世界においては、提示された謎にはかならず何らかの形でその真相が明かされるものであるが、私たちが生きて生活している現実世界の場合、私たちはかならずしもあらゆる謎を解き明かすことができるわけではない。むしろ、知りたいことや疑問に思ったこと、あるいはちょっとしたわだかまりや心残りだった事柄について、納得のいく解決を見出せないままに、日々の生活の忙しさに追い立てられ、いつしかそうした想いがあったこと自体を忘れていく、というのが大半である。

 何かを忘れていくというのは、人間に与えられた能力であり、また一種の福音でもあると個人的には思っている。忘れることができるからこそ、私たちはとりあえずの今を生きていくことができるし、またひとつのことにこだわり続けることができるほど、生活するという行為は甘くはない。働いて金を稼ぎ、生きていくのに必要なものを日々摂取し、家族をもつ者であればその関係を維持していかなければならない。また、私たちがさまざまな組織に属し、多くの人間関係のなかで暮らしている以上、そこにさまざまな摩擦やしがらみが生じることにもなる。生きる、という行為は、けっして「ただなんとなく」できるというものではない。想像以上にエネルギーを必要とし、多くの苦労や努力を強いることでもあるのだ。

 だが、そうした日々の生活のなかに埋没してしまった「想い」は、はたして本当に忘れ去ることができるものなのだろうか。本書『汐のなごり』は、六つの短編を収めた作品集であるが、江戸時代の架空の国、出羽の水潟という湊町を舞台とする本書のなかで、その中心となる登場人物たちは、いずれもそうした「想い」をかかえており、思いがけない形でその「想い」に決着がついたり、あるいはふと思い出した過去の心残りに対して答えを見出そうと、何らかの行動に出たりする。

 たとえば、「海羽山」に登場する木津屋の喜三郎は、古着などの古物を扱う問屋の主人であるが、もともとは津軽方面の出身であり、天保四年の大飢饉のさいに家族とともに故郷を捨て、そのなかで彼ひとりだけが水潟に流れ着き、運良く木津屋の先代に拾われたという経緯の持ち主でもある。良き女房に恵まれ、また商才もあった彼は、やがて木津屋の当主として喜三郎の名を継ぎ、六十近くまで商売一筋に働いてきたが、仕事の大半を若手に任せられるようになり、時間的にも心理的にも余裕が出てくると、かつて自身が体験したはずの飢饉――村を出て、水潟に辿り着くまでのことを思い出すようになる。父と母が道中で死んだことは覚えている。だが、いっしょにいたはずの兄がどうなったのか、どうしても思い出せない部分がある。はたして、兄は生きているのか、生きているのなら、今どこで何をしているのか、そして過去のあの日、それぞれに何があって、離れ離れになってしまったのか……。

 本書の大きな特長のひとつとして、いずれも中年から壮年、当時なら老齢といってもおかしくない年齢の人たちが、物語の中心人物となっていることが挙げられる。いわば、人生の終盤近くにいる者たちであるが、それは残りの人生がけっして長くはなく、未来よりも過去のほうが重要となっていく過程において、それまで忘れていたはずのわだかまりや心残りを違和感なく引き出すための、一種の装置として機能していると言える。人生の酸いも甘いも噛みしめた者たちが、ふと自身の人生を振り返ったときに浮かんでくる「想い」――それは、「海上神火」の志津のように、自分と世界をつなぎとめてくれる杭となってくれた男への変わらぬ想いであったり、「木洩陽の雪」の千世のように、遠い昔に目撃した理不尽な人の死であったりとさまざまであるが、ひとつだけ共通するものがあるとすれば、それはその過去の出来事が、当人の意識するしないに関係なく、自分が自分であるための要素として重要な位置をしめている、という点である。そしてそこには、かならず人と人とのつながり、説明のつけられない縁のようなものがはたらいている。

「歳月の舟」で町奉行に就いている喜田十太夫の場合、兄の敵討ちのために藩を出立し、そのまま何年ものあいだ音沙汰のない箕輪伝四郎であり、「合百の藤次」の芳五郎にとっては、かつて帳合米市場の寵児として名をあげながら、河北屋の策略で大きな損害を出し、夜逃げするしかなかった藤次郎だった。「塞道の神」のお以登にいたっては、生前の夫の浮気相手で今は尼僧となっている女性だったりするのだが、当人にとってはけっして良い思い出とは言いがたい人物との「縁」が、人生の思いがけない出来事を契機にして、ふたたび双方を結びつけていくという展開は、いかにも人の世の計りがたい運命を思わせるもので面白い。そして、そうした人々のさまざまな感情をすべて飲み込んで、なお泰然とそこにありつづける水潟の自然は、まるで移り変わっていくことを常とする世の中にあって、変わることのない人の「想い」を象徴するかのように、印象深く読者の心のしみこんでくる。

 水潟でも見馴れた、なんということもない川の景色なのだが、喜三郎は妙にしんとした気分で水面に消えていく波紋を見守った。木津屋喜三郎でもない、さりとて辰吉でもない、なにか本然のものに戻っているような、のたりと安らいだ気分であった。こんな心持ちは初めてだ、と喜三郎は思った。

(『海羽山』より)

 本書に描かれる人々の人生は、それぞれに言葉に尽くせない苦労をかさね、また下手をすれば身の破滅にもつながりかねない危機を乗り越えたうえで成立しているものばかりいである。飢饉や身売り、幼い子どもが病気であっけなく死んだり、色恋や博打に心を奪われたりといった、けっして平穏ではない人生模様を、感情過多になることなくつづっていく本書は、まさにその主人公たちの年齢にふさわしいだけの落ち着いた雰囲気を漂わせている。まるで、ふとした瞬間に鼻腔をくすぐる汐のなごりのように、人生の不意をついて浮かび上がってくる「想い」――はたして、そうした「想い」に人々が何を思い、どのような決着をつけていくことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.03.05)

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