【角川書店】
『八月の博物館』

瀬名秀明著 



「この世界は物語で溢れている」

 私がこのように書いたとき、そこには常に「物語」という言葉の持つ意味が問われることになる。「物語」とは何なのか――それは言わば、もうひとつの現実世界の提示である。もし、私たちが生きて生活しているこの世界を唯一絶対の真実だと仮定するならば、「物語」が提示する世界は、虚構ということになるだろう。実際、私たちは小説や映画、あるいはゲームなどの「物語」が、けっして現実では起こりえないもの、言わば造られた世界での出来事であることを知っている。だが同時に、私たちが現実だと信じているこの世界のことについて、じつはほとんど何も知らない、ということもよく知っている。私たちが何気なく利用しているありふれたもの、あまりにあたり前すぎて意識することさえ忘れてしまった事柄のなかにも、私たちが知り得ない「物語」が隠されていることは、例えば真保裕一の『奪取』や、加納朋子の『ななつのこ』を読んでもらえばわかることだ。そして当然のことながら、私たちが感じている現実と、この書評をお読みになっている人が感じている現実とは、けっして同一ではありえない。

 言うなれば、現実は無数に存在するのだ。人の数だけ、物事の数だけ、それぞれが微妙に異なった現実を内に秘めている。そう考えたとき、何が現実で何が虚構であるか、といった考え自体がナンセンスとなるだろう。この世界は確かに「物語」で溢れているのだ。

 そう、ひとつの絵から、きみの興味でいろんなことが繋がってくる。繋がりが重要なんだよ。目に見えないこの繋がりが、実は面白さのもうひとつの秘密なんだ。繋がりを示してやるのが見せ方なんだ……。だから、いいかい、作家は見せ方に注意しなきゃならない。博物館と同じようにね。

 本書『八月の博物館』は、そのタイトルのとおり博物館を舞台にした物語である。小学六年生の亨という少年が、その小学校最後の夏休みに偶然たどりついた不思議な博物館――絶えず時を刻むフーコーの振り子を中央ホールに設置したその博物館で、亨はひとりの女の子、美宇と出会う。いつも黒猫のジャックとともに登場する美宇に案内されて、博物館の中を巡る亨は、そこが時間と空間を越えてあらゆる博物館の展示室へと繋がっている、まさに夢の博物館、「ミュージアムを展示するためのミュージアム」であることを知る。

 ところで本書は、この亨を主人公にした物語のほかに、大きくもうふたつの物語の流れを持っていて、それらが交錯したり、微妙に絡み合ったりしながら全体の物語が進んでいく構造をとっている。そのうちのひとつは、十九世紀のエジプトを舞台にしたもので、そこではオーギュスト・マリエットという考古学者――誰よりもエジプトの地とその遺跡に魅せられたひとりの男が活躍することになっている。マリエットはカッサラの地で聖牛アピスのミイラを埋葬したとされるセラピス神殿の発掘に成功し、一八六七年のパリ万国博覧会では、そこでの発掘品を展示したエジプトパークを主催した人物である。

 いっけん何の関係もなさそうな、ふたつの異なった時代の物語――だが、私たち読者は、物語と接するときの暗黙の了解のひとつとして、このふたつの物語が必ずどこかで結びつくことになるだろうことを知っている。なぜなら、本書が物語である以上、本編と関係のない事柄が書かれるはずがないからだ。そのとき、あなたはこうした物語が抱える作為性について、どう思うだろうか。

 物語にいかにしてリアリティを持たせるか、という問題は、物語の作為性をいかにして押し隠し、現実の世界に近づけるか、という問題でもある。物語が物語である以上、けっして避けて通ることのできないこの問題に対して、昔からいろいろな人たちがさまざまな工夫をこらしてきた。例えばトールキンの『指輪物語』では、登場人物たちの住む仮想世界の国土や気候、植生や地形、街並、文化、宗教、生活習慣、言語、通貨、魔法体系にいたるさまざまな事柄を厳密に設定することで、もうひとつの現実を築き上げようとした。また酒見賢一の『後宮小説』では、現実と酷似した、しかしまったく異なる歴史を、同じく嘘の文献資料で飾り立てることで、虚構をあたかも現実のように見せようとした。

 本書において用いられたテクニックは、あらかじめ物語が物語であることを宣言してしまう、という方式である。そしてそのために用意されたのが、もうひとつの物語――すなわち前述したふたつの物語を書いている作者「私」が登場する物語なのである。

「私」の物語――それはまさに、この小説を書こうとしているひとりの小説家の身のまわりの出来事を書き連ねた物語である。彼はその物語の中で、物語の作為性についてひとくさりし、亨とマリエットのふたつの物語が、明らかに自分の手によって書かれた虚構であることを、読者である私たちに示しつづけるという役割を負っている。そして不思議なことに、彼が物語の作為性を強調すればするほど、逆に「私」の物語は、はた目には作為性のくびきから解き放たれるかのように錯覚してしまう。
 もちろん、現実にはそんなことはありえない。いかに「私」が瀬名秀明の分身であろうとも、本書『八月の博物館』という物語の中に文字として書かれている以上、「私」の物語もまぎれもない物語であり、やはりその作為性からは逃れられないからだ。

 だが同時に、私たち読者もまた、著者自身をモデルとした、小説家としての「私」に、本書『八月の博物館』の著者である瀬名秀明の姿を投影するという呪縛から逃れることができないのも事実である。その呪縛は、物語に慣れ親しんだ者であればあるほど逆に強くはたらくようになっている。なぜなら、それもまた物語自身が持つ暗黙の了解のひとつだからだ。さらに「私」は、亨という人物に自分の過去の姿を投影させ、かつての自分が取らなかった選択肢をあえて選ばせることによって、物語であると宣言された物語に、現実との微妙なつながりを持たせようとする。物語でありながら現実、現実でありながら物語――そう、本書は「私」の物語という、「現実」という名の虚構をフィルターのように挟み込むことによって、あたかも本書の物語全体を上質なヴァーチャル・リアリティのような空間に見せることに成功した、と言うことができるだろう。そして奇しくも、本書の核であり、亨や美宇が活躍する不思議な博物館は、展示物に隠された「物語」をいかに見せるか、どうやったら訪れた人たちを楽しませることができるか、という想いを結晶させた、まさに夢の――ヴァーチャルなミュージアムなのである。

 本書のなかで展開される、三つの物語――それぞれに目を向けたとき、そこには目新しいものはない。すでに、過去において誰かが何らかの形ですでに使ってしまった物語の形である。だが、その三つの物語をいかにして見せるか、そしてその見せ方によって、これまで使い古されてきたと思われていた「物語」の形が、いかに変化するものなのか。著者が本書で試みた、壮大な物語の実験を、ぜひとも味わってもらいたい。(2000.12.22)

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