【徳間書店】
『マーブル騒動記』

井上剛著 
第三回日本SF新人賞受賞作 



 知能という言葉を辞書で調べてみると、ようするにこれまでにない新しい課題や問題、環境の変化などといったものに遭遇したときに、いかにして問題を解決し、また適応していくかを模索する知的能力のことを指しているそうだ。環境の適応などと言うと、私たちは種の進化といった、ものすごく長いタームで物事を考えてしまいがちであるが、それはあくまで知能の発達していない動物にあてはまるものであって、高い知能をもつ人間という種にはあてはめることはできない。たとえば、人間は寒さから身を守る体毛をほとんど持っていないが、その代わりに他の動物の毛皮から服をつくり、それを身にまとうことで寒さに適応することができる。寒さから身を守るために服を着る、という行為――それが知能と呼ばれるものの所産であるとするなら、人間という種はたしかにとんでもなく高い知能を獲得した生物だと言うことができる。知能とは、苛酷な環境で生き残っていくための武器に等しいものなのだ。

 私たち人間が自我に目覚め、複雑な思考回路をもつようになり、言葉を生み出して文明を発達させ今にいたるまで、けっして短くはない時間が経過しているはずであるが、それでも地球そのものの歴史、あるいはこれまでの生物が経てきた進化の過程とくらべると、それはごくごく短い時間での出来事にすぎない。にもかかわらず、もともと猿に等しかった人間が短期間でここまで進化をとげてきたのが、高い知能を有しているおかげだとすれば、それはある意味恐るべきことである。

 知能を獲得した人間は、これから先どこへ向かうことになるのか、そして知能とは、本来どういうものであるのか――本書『マーブル騒動記』は、それまで家畜の立場にいた牛たち、それも黒毛和牛たちが突如として人間と同等の知能を獲得し、自分たちの生きる権利を主張し始めるという、ある意味でユーモア小説であるが、その根底には、知性を背負った人間のこれからの行く末を鋭く見据える視点がある。

 TVC中央テレビの製作部ではたらいているサブプロデューサー御手洗嗣人が家に戻ってくると、巨大な黒い牛が彼を待ち受けていた。その牛はテレパシーを使って嗣人に話しかけ、自分に突如知能が発生したこと、この知能は自分以外の牛にも生じはじめていること、そして嗣人たちの担当する番組に自分を出演させ、自分たちを畜種として殺して食べるのはやめるように主張させてほしいことを伝える。牛たちは、自分たちにそなわった知能を自分の種の待遇改善のために利用しようとしていた。いっぽうの嗣人は、チーフプロデューサーである二宮を出し抜く大きなスクープとして、この牛を利用できると考えていた。

 いわば、お互いの利害が一致したうえで成立した、きわめて打算的な協力関係であったが、番組そのものは予想以上の反響を呼び、同時に全国各地で知能を得た牛たちのストライキが発生、動物愛護団体などの胡散臭い連中もまきこんで牛権擁護の風潮は勢いにのり、ついに国会においても家畜の権利を認める法案を決議するにいたる。それは、嗣人たちにとっては予想以上の大きな成果だったのだが……といった感じで進んでいく本書は、まさにタイトルどおりの「騒動記」と言える内容だ。人間側から見れば、まさに青天の霹靂である牛たちの知能の獲得であるが、論じられるのは「牛肉を食べるのかどうか」という、大部分の人間にとっては当面の問題ともなりえない事柄ばかりであり、そこに畜産業者の陳情や、族議員たちの打算が入り混じって紛糾していく様子は、まるで論点のズレた事柄を論じている会議を見ているかのようなおかしさがあるし、またそうした人間たちのごたごたに対して、あくまで冷徹でもっともな感想を述べるモー太郎――嗣人の息子、卓人が命名した牛の名前――の泰然自若とした様子や、責任のなすりつけあいしかできない国の重鎮たちを相手に、論理で牛たちの主張を押し通してしまう様子もユーモアに満ちたものである。

 なんといっても、牛である。言うまでもないが、私たちの大半は牛はあくまで家畜でしかない、という視点から簡単に逃れることができない。私たち人間と同等、あるいはそれ以上の知的能力を有するもの、という立場で牛と接することはできないのだ。翻って牛たちのほうはどうかと言えば、彼らはモー太郎が語るように「個性」というものの概念を有していない。彼らはモー太郎もふくめて、あくまで種の総意として思考し、テレパシーをとばし、行動をする。どんな牛であってもその結果は変わらないというその知能は、あたかも「牛」というひとつの大きな存在と対峙しているようなものであるが、ここで重要なのは、本書のユーモアがたんに人間と牛が同じ土俵に立とうとすることで生じてくるさまざまな非日常的言動だけでなく、じつは同じ知能を獲得した生物どおしでありながら、「個性」の有無というギャップからも生じている、ということであり、かつそのギャップは物語の進行上、重要な要素のひとつとなっている点である。

《そういった心情が存在することは理解できる。しかし、私たちには無縁のものだ。なぜなら、私が為したことは他の牛が為したことと等価であり、他の牛が為したことはまた私が為したことと等価だからだ》

 最初にモー太郎を出演させて番組を成功させた嗣人が、個人の名誉欲について問いかけたときのモー太郎の返事が上述の引用であるが、いくらそんなふうに言われたところで、嗣人にとってモー太郎はあくまでモー太郎という個であって、仮に同じような思考にいたるとしても、べつの牛でいい、というわけにはいかない。このあたりの「個性」の要素がとくに大きいのが息子の卓人の行動で、彼はすっかり個としてのモー太郎になついてしまい、まるで長年の親友か何かのように悩みを相談したりする特別な間柄となっていく。卓人のモー太郎に対する感情は、あるいはペットに対する愛玩欲と似たようなものがあるのかもしれないが、それはそのまま、現在別居中となっている妻の暁子と嗣人との関係につながっていくものである。

 同じ人間どおしであっても、個性という差があまりにも大きくてお互いにわかりあうことのできない人間、逆に、どれだけ多くの頭数がいても、そこから導き出される思考がたったひとつしか存在しない牛――知能を獲得した牛に対して、けっきょくは「牛肉を食べるのかどうか」ということしか話題にあげられない私たち人間、あるいは自分たちの生きる権利を確保することだけにしか知能を使おうとしない牛たちのなかで、ただひとつ、モー太郎と卓人の関係のみが、未来への大きな可能性を秘めたものとして、物語が進むにつれて浮き彫りになっていく。

 本書のタイトルにある「マーブル」とは、牛肉の霜降りの様子をあらわす英語でもあるという。私たちがふだん何気なく食している牛肉が、どのような過程を経て私たちの食卓に並んでいくのかといった畜産関係の知識も多く、それだけでもいろいろ考えさせられるところの多い作品であるが、本書が何より評価されるべき点は、私たちの獲得した知能が、本来は種の生存の道具としてあること、そしてこのまま今のような状態がつづいていけば、いずれ自滅していくのみだとするなら、今こそその知能を本来の目的のために使っていくべきではないのか、という主張を物語のなかに込めたことである。そういう意味においても、本書は来るべき人間の未来へと目を向けたSFだと言うことができるだろう。(2005.10.05)

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