【新潮社】
『夏の魔法』

本岡類著 



 人間、生きていればそれなりにいろいろ失敗をしでかしたりする。できることなら、そうした失敗をすることなく、スマートな人生をおくっていきたいと誰しも考えるものだが、現実というのはそれほど甘いものではない。大なり小なり、判断を間違えて失敗したり、それこそ恥ずかしくなるような失態を招いてしまったりするものなのだ。このサイトひとつをとっても、おもに人間関係において目もあてられない失敗を何度も経験しているし、その結果として、今の形があると言っても過言ではない。もし、私がこのサイトを立ち上げていなければ、そうした過去の失態で身もだえするようなこともなかったのかもしれないが、逆にこのサイトを立ち上げたからこそ、本を通じて多くの人たちとのつながりをもつことができたとも言える。このサイトを運営するという経験は、私の人間としての、ある種の人生経験の一翼を確実に担っている。

 宝くじの当たる確率はこのうえなく低いものであるが、宝くじを買うという行動を起こさないかぎり、可能性は常にゼロとなる。それが成功するにしろ、失敗に終わるにしろ、何らかの行動を起こさなければ、前に進んでいくことはできない。だが、これは私自身にもあてはまることだが、妙なところで高いだけのプライドが、自ら動きだすということに大きなブレーキをかけることが多いのも事実である。動き出さなければならない、今のままでは駄目だ、でも失敗したらどうしよう、今度はもう二度と立ち直れないかもしれない、みんなに置いていかれることにもなる――それはともすると、自分だけの世界で完結してしまっているがゆえの堂々めぐりに陥っているわけで、はたから見ているとむしろ滑稽でさえあったりするのだが、当の本人にとっては、それこそ生死をかけた重大事だったりするのだから、事態はいよいよやっかいになる。

「信ずる信じないは自由だけどよ、牧場には不思議な力がある。たいがいの若い者は大きく変わるね。牛飼ってる牧場には、ほんと不思議な力、魔法みたいなもんがあるんだよ」

 本書『夏の魔法』の舞台となるのは、日本の牧場である。牧場というと、広い牧草地で牛たちが放牧されているという、いかにも牧歌的なイメージがついてまわるものだが、こと日本の酪農の場合、狭い国土と山の多い地形という条件ゆえに、完全放牧は本州ではまず不可能、採算をとるために、牛たちはその生涯を牧舎で暮らすというスタイルにならざるを得ない。本書に登場する高峰俊彦は、那須の山地で小規模ながら、山を牧場に見立てて放牧するという特殊な牧場を経営している中年男性だが、そんな彼のもとにひとりの青年がたずねてくるところから、物語ははじまる。草壁悠平――俊彦のじつの息子でありながら、離婚して以来十年以上も会うことのなかった青年は、高校卒業後、大学進学も就職もしないまま、家にひきこもっているという。そんな彼が、人生の再出発として自分の牧場で働くことを選び、俊彦はそんな彼を引き受けることにしたのだが、俊彦の予想と違い、悠平は決められた時間には起きられないし、仕事を覚えようともせずに、部屋のなかにひきこもったままでいる。いったい、何のためにここまで来たのか、息子の心がわからずに、妙な焦りと緊張ばかりが膨れあがっていく。

 一時は悠平がほんとうに自分の息子なのかという疑いさえいだいた俊彦だったが、同じ牧場経営者で、牧場での仕事体験として若者を積極的に育成している森敏明をはじめ、関係者に話を聞くにつれて、母親の過剰なまでの干渉のこと、悠平が高校のときに起こした甲子園でのアクシデントのこと、そこから、彼が失敗することを極度に恐れて、進退極まって立ちすくんでしまっていることに思いいたり、悠平自身が動きはじめることを信じて気長に待つことが大事なのだと気づくことになる。

 本書を評するにおいて、語るべき切り口はいくつもあるが、大きくふたつにわけるとすれば、それは草壁悠平からの視点と、高峰俊彦からの視点ということになる。じっさい、このふたりがそれぞれ中心人物となって物語は展開していくのだが、このふたつの切り口は、読者としてはどちらの人物に感情移入できるか、ということにもつながっていく。それと同時に、このふたつの切り口によって、現代に生きる私たちがかかえる問題の多くがそのなかに含まれていることにも気づくことになる。

 たとえば、草壁悠平がかかえているは、引きこもり、家庭内暴力、そして自殺未遂という、まさに今の若者が陥りがちな問題のオンパレードという状態であるが、その根底にあるのは、自分の意思で何かを決定し、行動に移していくことができずにいるという、ある意味繊細で傷つきやすい心の問題である。この書評の冒頭でも書いたが、人生においてすべてが成功することなどありえないことだ。そして彼が高校野球で相手のエースの顔にボールをあて、その選手生命の一部を奪ったという事実は、たしかに重大な過失ではあるが、問題なのは、その失敗にもともと繊細だった心がポッキリと折れてしまい、またそれがトラウマとなって何もできずにいるという、ある意味で臆病になった心のほうにこそある。

 いっぽうで高峰俊彦がかかえる問題は、不倫問題、離婚に象徴される家庭崩壊、生命の生死とは大きく隔たってしまった仕事への疲れ、そしてガンという現代病といったものだ。じつのところ、こうした人生の転落を経て、今の酪農を営むという彼自身がいるのだが、動物の生と直接かかわるという、けっして生半可な決意では継続できない仕事を手がけて足掛け四年、なんとか酪農家としてやっていけるようになり、牛の体調管理にもそれなりに気がつくようにはなったのだが、そこに悠平という「動物」が転がり込んでくる、という展開が、本書の大きなキーポイントである。血のつながった父子ではあるが、不在の時間があまりにも長いために、素直に父子としての関係を築きなおすこともできず、どこかぎくしゃくしてしまうふたり――それはお互いにとって、飼っている家畜以上に謎に満ち、ひときわ扱いの難しい「珍種」なのだ。

 物語の展開としては、それぞれに問題をかかえていた父と子が、それこそ牛の糞を体にひっかぶるといった汚い失敗を経て、一歩前に踏み出していくという話である。それまで十九歳という年齢とは裏腹に、まるで中学生のように一方的で幼稚な考えしかできなかった悠平の立場から見れば、そこには青春小説としての要素を見出すことができるし、それまでエリート銀行員だったのが一転、どん底を経て牧場経営者となった俊彦の立場から見れば、家族のつながりということだけでなく、とかく効率第一の社会に対する問題提起から、人間としてどのように生きるべきなのか、といった深遠な命題が見えてくる。ごまかしもいいわけもできない、まさに体当たりでぶつかっていくしかない、生き物相手の仕事――そういう意味では、牧場にはたしかに「魔法みたいなもん」があるのかもしれない、という思いをいだかせてくれる作品である。(2008.12.22)

ホームへ