【講談社】
『終戦のローレライ』

福井晴敏著 



 ハードボイルドというと、レイモンド・チャンドラーが描くある私立探偵の言葉――「人は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」――をまずは思い浮かべる。あくまで自分が正しいと思うことに忠実に生きる強さと、その主義を貫き通すためであれば世界を敵にまわすことも厭わないタフさをもった、ハードボイルド小説の主人公の生き様は、私の理想であり、そんなふうに生きたいという願望の象徴でもあるのだが、強くあると同時に優しくもありつづける、という生き方が、はたしてこの現実の世界でどこまで両立しえるのだろうか、と思うことがある。

 そもそも、自分の心情や内面を表現することを廃し、あくまでありのままの事実のみを冷徹に見据え、淡々と外面だけを描いていくという、ハードボイルド特有の表現方法が、第一次世界大戦を経験した、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる人たちによって確立された手法であることは、非常に興味深いものがある。人が人を殺すという狂気を正当化してしまう戦争――そのあまりにも忌まわしく、理不尽な現実を前にして、その心情を表現し、理解してもらうことなど到底不可能だと悟った人たちが、内面描写そのものを放棄せざるを得なかった、ということを考えたとき、そうした表現方法で描かれるハードボイルドの主人公は、じつはけっして強いわけではなく、強いふりをしているだけの、弱くて脆い人間のひとりなのだと妙に納得するようになっていた。

 人は根本的には弱いものだ。だからこそ人は強くありたいと思う。とくに、自分の弱さゆえに大きな過ちを犯してしまった者は、二度とその過ちをおかさないために、強さで身をかためることを望むようになる。だが、もし本当に圧倒的な強さを持ちえたとしたら、おそらくその瞬間、その人物は人間ではなくなってしまうに違いない。なぜなら、人は弱さをもっているからこそ、他人の弱さを思いやることができるのであり、それこそが人間のもつ優しさの原動力となっているからだ。ハードボイルドの主人公は、けっして強くはない。ただ、「強くなければ生きていけない」現実において、それでもなお「優しさ」をもって人と接していくことを選んだ、やせ我慢好きな人間なのだと言える。ただ、私たちはそんな彼らの生き様にこそ、真の強さを感じるのである。

 本書『終戦のローレライ』は、厳密にはハードボイルド小説とは呼べない。だが、そこに書かれているテーマは、非常に骨太でハードボイルド的である。人としての強さと弱さ――強くありたいと思うがゆえに弱さを忘れてしまった者たちと、弱い人間であるがゆえに、人としてあたり前のやさしさを守りつづけた者たちの姿と、それぞれの生き様が交錯し、火花を散らしていく様子が熱く描かれている作品、それが、本書という物語を説明するにふさわしいものである。だが当然のことながら、それだけで本書の魅力がすべて伝えられるわけではない。上下巻、原稿用紙2800枚というこの大長編は、あるひとつの時代の終わりと、そこから先につながっていく現代の姿を余すところなく描いており、それはひとつの大河ドラマにも匹敵するボリュームを納めていると言うことができるだろう。そしてそれゆえに、本書はさまざまな物語を内に秘めている。

 第二次世界大戦末期の日本――同盟国であるドイツが無条件降伏し、日本でも連日のように本土を空襲する敵機を前になすすべもなく、誰もが心のどこかで「日本は負ける」と感じていた昭和20年のある日、一杯のドイツ潜水艦が帝国海軍に譲渡された。それにともない、日本各地から秘密裏に海軍兵士が集められる。帝国海軍上等工作兵である17歳の折笠征人と清永喜久雄もまた、そんな兵士たちのひとりとして転任先へと向かっていた。極秘任務として何をさせられるのかまったく知らされないまま命令を受けたふたりは、どのみち特攻部隊の人間魚雷として散る覚悟を決めてはいたが、ようやくその目的地――戦利潜水艦「伊507」に乗り込んだ征人と喜久雄は、その艦内で自分たちのなすべきことが、もともとこの艦が積んでいたという特殊探知装置「ローレライ」を、海底から回収することであると知らされる。だが、そんな「伊507」の行く手には、彼らを執拗に追い続けるアメリカ軍潜水艦が待ち受けていた……。

 本書について語るべきことは数多くあり、物語の進行そのものも一直線ではなく、いくつもの謎や伏線、過去の出来事を小出しにしたり、何人もの登場人物へと次々に視点が移っていったりするうえに、敵の奇襲を受けたり不利な戦闘を強いられたりといった、緊迫する場面が連続するというめまぐるしい展開で、その内容を簡潔に説明すること自体、難しいところであるが、物語そのものは大きく三つに分けることができる。まず序盤の山場である特殊探知装置「ローレライ」の回収と、その意外な正体に関する部分、中盤の山場である潜水艦「伊507」を用いた特別任務の内容と、その作戦の立案者である軍令部所属の浅倉良橘の、真の思惑の部分、そして終盤の山場であるアメリカ軍基地への特攻――東京に落とされる予定の特殊爆弾を搭載した爆撃機の離陸阻止の部分だ。そしてこの三つの部分のうち、中盤と終盤だけを取り出してみると、そこには著者の前作である『亡国のイージス』と類似する要素があちこちに見受けられることに気づく。首都東京壊滅の危機、突然反旗を翻す仲間たち、その心の内に秘められた、日本という国と民族に対する絶望、そして奪われた艦を奪還すべく行動を開始する主人公――その筋書や設定、登場人物たちに与えられた役割など、まるで『亡国のイージス』のリメイク版とも言える『終戦のローレライ』が書かれたいきさつについては、フリップ村上氏のサイト「独立幻野党」に詳しいので、この場で言を繰り返すことは避けるが、しかしひとつだけたしかなのは、では本書にはなんら新しい要素はないのか、という問いに対して、間違いなく「NO」と応えることができる、ということである。

 福井晴敏という作家が書く小説には、一貫して強いテーマが含まれている。それは、日本国の脆弱な危機管理意識の痛烈な指摘と、国際意識という立場で見たときに露呈される未熟な民族精神ともいうべきものだ。こうした日本人の弱点、とくに相手を冷静に観察し、論理的に説得することへの不得手が、どれだけ日本という国にとって大きな損失となっているか、ということについては、小室直樹の『数学嫌いな人のための数学』でも指摘されていることではあるが、下手をすると平和憲法の理念に真っ向から対立しかねない著者のテーマ性について、人によっては拒否反応を示すこともありえるだろうことは否定しない。

 だが、こと本書に関して言うなら、舞台が現代から第二次世界大戦末期へと移行することによって、奇しくも上述の著者の強いテーマ性がかなりの割合で緩和される結果となった。もはや勝ち目などないわかっていながら、「一億火の玉」などという狂った精神主義を国民に植え付け、止めたくても止められない戦争のために多くの若い命が犠牲となった、ある種の異常な状態だった時代に舞台を置くことで、それまでは今ひとつ希薄だった著者のもうひとつのテーマ――私としては、じつはこちらのほうこそ著者の真のテーマだと思っているのだが――である人間の強さと弱さというハードボイルド的な部分が、逆に前面に押し出されてきたのである。それは、軍による徴兵、天皇のため、国のためというお題目によって敵機への特攻を強いられた若者たちが発する「なぜ戦うのか」「何のために戦うのか」という問いかけが、そのまま「なぜ生きるのか」「なんのために生きるのか」という、人間としての根源的な問いかけと直結していた戦争末期という時代だからこそ起こりえた、化学反応とも言うべき作用の結果である。

 そして、この人間がもつ強さと弱さというテーマを語るうえで、どうしても外せないのが、パウラという少女の存在である。特殊探知装置「ローレライ」の要とも言うべき、ひとりの少女――ナチスドイツの外道な人体実験のさいに発露した、水を媒介とした精神感応能力をもつパウラは、登場当初こそ「兵器」と呼ぶにふさわしい、機械のような無感情を保っていたが、たとえば同著者の『Twelve Y.O.』に登場するウルマとくらべて、その後はずっと人間らしい態度を示すようになっていく。それは、ある意味で純朴な少年である征人をはじめとする「伊507」の乗組員たちが、一貫して彼女を人間として扱っているから、というのもあるのだろうが、それ以上に重要なのが、精神感応という特殊な力ゆえに、敵艦隊を撃沈するたびに、死にゆく人たちの苦悶を一身に受けなければならず、そのため「ローレライ」のシステムが沈黙してしまう、という設定である。

 複数の敵艦隊を相手に戦うことができない――それは、どれだけその探知能力がすぐれていようと「兵器」としては致命的な欠陥である。だが、それはパウラがまぎれもない人間である、ということを考えれば、ごく当然の反応なのだ。そして、彼女が「伊507」の圧倒的不利な立場をくつがえすため、自分の人間としての感情を捨て去る薬を飲もうとするが、仲間たちがそれをけっして許さない。もし、純粋に「強さ」のみを求めていくのであれば、人間であることを捨ててでも薬を飲むのが正しいことなのだろう。だが、著者は暗にそれを「弱さ」だと指摘する。たしかに人間は弱い生き物だ。時には大きな過ちを何度も繰り返してしまう。だが、それでもなお人間であることの苦痛から逃げるべきではない――「ローレライ」の弱点を知りつつ、それでもなお自らの信じるもののために全力で戦う「伊507」は、だからこそ人の心を打つのだ。

 あいつの強さの本質は、立場の優劣で人を隔てないところだ。誰をも理解しようと努め、傷ついても向かっていく愚直さだ。――(中略)――やさしさは弱さの裏返しという定理は、折笠征人に関しては成立しない。あいつの無責任なまでのやさしさは、傷つくことを恐れない強さに裏打ちされたもの。それはそれで、日本という島国が培った特殊な力なのかもしれない。

 人は強いから優しくなれるのではない。優しくあろうとするからこそ強くなれるのだ――そう考えたとき、日本人であることも、まんざらではないのかもしれない、という希望のかけらが見えてくる。本書は、まさにそういう作品なのだ。(2004.06.22)

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