【新潮社】
『白い巨塔』

山崎豊子著 



 人間である以上、誰もが多かれ少なかれもっている欲望というものについて、ふと思いをめぐらせる。もっともシンプルで原始的な欲望として思い浮かぶのは生存欲――とにかく生き続けたいという欲望であるが、このあたりの欲望を露骨に感じとることができるのは、自身の生命が脅かされるような事態に陥ったときくらいである。つまり、死に直面したさいに沸き起こる「死にたくない」という強烈な思いがあってはじめて想起される欲望であり、ふだんの生活のうえであたり前のように生きている、大部分の健康な人たちにとって、そうした生存欲はなかなか意識しにくいものがあるし、また常に死を意識して生きていけるほど人は強くもない。

 食欲、性欲、金銭欲、名誉欲――私たちの生は数多くの欲望によって突き動かされているようなものであるが、けっきょくのところこうした欲望は、「生存欲」の派生したものにすぎない。自我をもって生まれた人間が、ただ生きること、自己の遺伝子を後に残すことだけで満足できず、他ならぬ人間であること、他ならぬ自分自身であることを意識するために、際限なく分化していった数々の欲望は、自他を強烈に区別するために作用する。多くの金をもっていること、多くの愛人をもっていることといった、非常にわかりやすい区別で自分をアピールしたいという欲求は、裏を返せば、そうしたものを手に入れることで、自分の属する社会において優位な位置を維持することへとつながる。それはまさに「人間」として生存しつづけたいという欲望そのものだ。

 小説は、虚構のなかに人間とその関係性を描くものであり、そうである以上、そこには少なからぬ「人間」としての欲望が書かれることになる。人間ドラマという言葉が、人間どおしの関係から生ずる欲望によって引き起こされる悲喜劇を指すものであるなら、本書『白い巨塔』という作品は、まさにこの人間ドラマを凝縮することによって完成されたものだと言うことができると同時に、本書が医療という、人の生命に直接かかわる世界を舞台としたことに、深い有意義性を感じずにはいられない。

 本書の中心にあるのは、国立浪速大学付属病院の第一外科に所属する助教授、財前五郎であり、彼が外科医として医学界の頂点に君臨すべく、出世街道を登りつめていく様子を描いたもの、というのが本書の概要である。貧しい田舎から医学部に進学、苦労しながらも卒業後にその将来を嘱望され、開業医である財前家への婿養子となった財前五郎は、現在消化器系の外科医としての才能については自他ともに認める腕前をもっている。とくに手術が困難とされる食道噴門癌については、日本でも第一人者と称されるほどで、マスコミでも脚光を浴びる「時の人」だ。普通に考えれば、これだけの才能と頭脳があれば何もせずとも順調に出世していけるはずであり、じっさいに第一外科の次期教授の座は間違いのないものと思われていた。だが、財前のあくの強い、傲慢不遜な性格は彼の恩師である東教授の怒りを買うことになり、自身の退官後の教授を決めるために行なわれる次期教授選挙に財前ではなく、他大学からの教授を候補として立ててきた。

 文庫本にして計五冊というボリュームの本書で、財前はその出世の最初の足がかりともいえる教授の肩書を得るという時点で、すでに熾烈な選挙戦を強いられることになるのだが、その後も彼が手術を行なったものの、肺への癌転移を見落としていたため死亡させてしまった患者の遺族が起こした民事裁判や、ある教授の思惑によって立候補することになった日本学術会議の会員選挙選など、財前が歩む出世街道は多分に茨の道である。彼にとっての外科医としての人生は、そのまま出世のための戦いの人生といっても過言ではなく、それゆえに本書はドラマチックな展開の連続であり、けっして読者を飽きさせることがないのだが、ここでひとつ問題となってくるのは、財前五郎の名誉欲――医学界でより高い地位と権力を欲してやまない性格や、その障害となりそうなものと徹底して戦い、打ち負かしていこうとする態度が、どこから出てくるものなのか、という点である。

 以前読んだ岡本浩一の『権威主義の正体』において、「権威」と「権威主義」との違いが書かれていたが、少なくとも外科医としての技術という一点において、財前の優秀さは間違いのないものがある。能力がないにもかかわらずそれをあるかのように見せかける「権威主義」の力を借りずとも、彼は立派な「権威」そのものであるはずなのだ。にもかかわらず、教授選をはじめとする彼の前途がけっして洋々たるものでない、というのは、技術だけでは医者として優れているとはいえないという著者の意識の表われでもある。

 じっさい、本書には財前と対をなす人物として、里見脩二という同病院の助教授が登場し、財前の物語と並行するように彼の人生についても書かれているのだが、もともと学究肌で病理学での研究に打ち込んでいた彼は、病人を治療してその生命を救いたいという強い思いをもって臨床に転じたという経緯があり、内科医としては徹底した検査で癌などの病気を早期に発見、治療するという姿勢を貫いている。同じ助教授で同期の仲でありながら、外科と内科という対称はもちろん、体格も性格も真逆を行くようなふたりは、後に医事裁判で決定的な対決姿勢を見せることで、それぞれの医療における重きを置くところがどこにあるのかを明確にしていく。

 里見は財前の手術の腕前を認めているし、財前もまた里見の病巣を見つけ出す眼力を賞賛せずにはいられない。どちらも医者としての優れた技量をもっているが、里見がその技術を、なにより患者を治療するためのものという厳粛な捉え方をしているいっぽう、財前は自身の優れた技術にふさわしい地位や肩書を手に入れたいという欲望にとらわれている。それは裏返せば、自分の医者としての技量なら、今のままで終わっていいはずがない、という思いであり、それがおよそ患者の病気を治すことに対する真摯な態度からはかけ離れたものとして、彼の態度に出てくることになる。そしてふたりのそんな違いは、物語が進むにつれて里見が以前と変わらず病気の治療や検査といった仕事をこなしているシーンがつづくいっぽう、財前のほうは国立病院の教授であるにもかかわらず、次第に医療現場から離れた場所で権謀術数をめぐらせるシーンが大半を占めるようになる、といった形で現われてくるのだ。

 まるで専門家を思わせるような、医療や法曹にかんする豊富な専門知識に裏打ちされた圧倒的な描写や、選挙戦や裁判といった場面での盛り上げ方など、物語としても優れたところのある本書であり、そのなかで財前という人物は、里見との比較においてまるで悪役であるかのように受け取られてしまうところがあるが、この作品に登場する者たちは、ごく一部の例外をのぞいては、誰もが多かれ少なかれ「白い巨塔」と呼ばれるきわめて封建的、ギルド的な社会のなかで、いかに自分の位置を確保し、あるいはのし上がっていくかに汲々としているところがある。財前の担当教授だった東にしても、自分の退官後も自身の影響力を維持したいという身勝手な野望に燃えていたし、財前が教授になった後に、彼の派閥に属する講師や助教授たち、とくに医事裁判で重要な位置に立たされる柳原については、病院内での自身のポストをふくめ、医者としての生殺与奪を握っている財前の権力と、純粋に医者としての良心とのあいだで長く心を揺さぶられることになる。なまじ病院という、景気にほとんど左右されない医療法人であるがゆえに、その内部における生々しいほどの権力志向や派閥争いは、まさに人間ドラマの坩堝というにふさわしい場だと言える。そして、そうした場での人間ドラマを描くことこそが、本書の一貫した姿勢である。

 人間ドラマを彩る人々の欲望――その欲望は際限なく膨らんでいくものであるが、どれだけ多くの金銭を得、どれだけすばらしい名誉を手にしたとしても、自身を形成する肉体を冒す病魔の前ではすべてが平等であり、さらに言うなら、その先にあるかもしれない死についても同様である。人間の欲望の根源である生存欲ともっとも密接に結びついている医療という場で、もっとも人間臭く、それゆえに醜くも逞しくもある欲望の数々が渦巻く様子は、はたして読者にどのような思いを抱かせることになるのだろうか。(2012.02.20)

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