【新潮社】
『神秘の短剣』

フィリップ・プルマン著/大久保寛訳 



 たとえば、この世に戦争が存在しなければ、「戦争」を言い表す言葉も存在しなくなる代わりに、「平和」という概念もまた存在できなくなる。生まれてからずっと平和な状態のなかで生活している人間にとって、平和であることはあたり前のことであって、わざわざ言葉で定義づけする必要がないからである。「戦争」が存在するからこそ、私たちは「平和」を尊び、大切にしようと心がける。そういう意味で、戦争と平和という概念は深く結びついた一対であり、けっして切り離して考えることのできないものだと言うことができるだろう。

 ところで、旧約聖書の「創世記」に出てくる、アダムとイブの話はご存知だろうか。蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまった二人は、そのことによって楽園から追放され、死という運命を背負わされてしまうことになるのだが、私の持っている聖書には、じつは「知恵の実」という表記はどこにもなく、ただ食べると「神のように善悪を知ることができる」とあるのみである。聖書の世界で人間が手に入れた、善悪の知識――それこそが人間の堕落のはじまりであるとされているが、逆にいえば、人間は悪いことができるようになった代わりに、善いこともできるようになった、ということでもある。平和を知るためには戦争を知らなければならないように、善を知るためには悪も知らなければならないのだ。

 本書『神秘の短剣』は、前作『黄金の羅針盤』につづくライラシリーズの第2巻であるが、前作の最後に異世界への扉を開けたアスリエル卿――ライラの実の父親の後を追って、これまでその存在すら知らなかった別世界へと飛び込んでいったライラは、そこでひとりの少年と出会うことになる。

 前作『黄金の羅針盤』におけるライラの冒険のはじまりが、少なくとも表面上は突然のことだったのに対して、本書に登場するウィル・パリーの冒険の旅は、小さい頃からなんらかの予感とともにあったものだ。探検家である父の失踪、母の精神的な病気のはじまりと、その母を世話する毎日、そして父の秘密をさぐりにやってきた怪しげな男たち――自分の父親がなんらかの事件に巻きこまれたことを確信したウィルは、追手が手に入れたがっている父からの手紙とともに、父を探す旅に出る決意をする。

 物語の冒頭から緊迫したシーンを連続させ、読者を否応なく物語の世界へと引きずりこんでしまう本シリーズであるが、ライラとウィルの冒険のはじまりかたが、そのままふたりの性格をよくあらわしている、というのはなかなか興味深い。どちらかというと直情的で、いきあたりばったりな行動の多い、おてんば娘のライラに比べ、ウィルのほうは少なくとも用心深く、周囲の状況を洞察して最善の行動をとろうとする冷静さをもっている。それだけ、ウィルがその人生において苦労を重ね、早熟しているということであるが、そんなふたりに共通しているのは、どちらも子ども――しかも、みずからの意思で日常から非日常へと飛び込んでいくだけの勇敢さをもった子どもだということである。

 前作『黄金の羅針盤』の書評で、私は冒険物語が子ども特有のものだ、ということを書いた。だが、本シリーズにおいて「子どもである」という要素は、当人たちの予想をはるかに越えて、非常に重要な鍵となっていると言うことができる。大人にだけとりつき、子どもには寄りつかない素粒子「ダスト」の存在、大人の意識をむさぼり食い、子どもには目もくれず、また子どもたちの目には見えないという吸魂鬼「スペクター」の増殖、子どもとダイモンとの絆を断ち切ってしまう教会の実験、そして旧約聖書にある人間の堕落――そもそもライラが別世界へとやってきたのは、ダストの正体を探るためであるが、運命はより大きな、そしてより過酷な試練へと彼女を導いていく。そしてウィルもまた、「神秘の短剣」の守り手としての運命を背負わされることになる。

 はたしてダストとは何なのか。この世のあらゆるものを――空間でさえ――切ってしまう「神秘の短剣」は、どんな目的があってつくられたのか。ウィルの父親ははたして死んだのか、それともどこかで生きているのか。別世界への扉をこじあけ、無数にあるパラレルワールドの調和を乱すアスリエル卿の真の目的は何なのか。そしてコールター夫人をはじめとする献身評議会は、アスリエル卿の何に恐れているのか。本シリーズの3分の2まで読み終えて思うのは、本書はいわゆる「善」や「悪」という考えのもとに書かれた物語ではない、ということだ。

 そう、少しだけネタばらしをするなら、本シリーズの大きなヤマ場は、アスリエル卿を中心とする勢力と、コールター夫人を中心とする勢力との争いにある。だが、どちらが善でどちらが悪か、という定義づけを両者に対しておこなうことはできない。それでもしいて定義づけるなら、「法」と「混沌」ということになるだろうか。あるいは「宗教」と「科学」、「神の奇跡」と「人類の英知」――ともかく、非常に深遠な目的のために争い、ときには非道ともいう言うべき行為をおこなうことをためらわない、という意味で、どちらもヒーローというわけではなく、またライラとウィルも、ヒロイックというよりは、むしろピカレスク的要素が強いと言うことができる。何重ものパラレルワールドを行き来する、荒唐無稽な物語でありながら、それでもなお読者をひきつけてやまないのは、もちろん徐々に明らかになっていく謎の意外性、その展開の壮大さもあるのだろうが、それだけでなく、善悪で判断することのできない、むしろそうした定義づけを拒否するかのように振舞う登場人物たちの人間臭さ――知恵と同時に罪を背負った、ありのままの人間の姿を描こうとしているからではないだろうか。

 神とは何なのか、宗教とはなんなのか、そして科学という知恵のもとに進歩してきた私たち人類が、これからどのように生きていくべきなのか――善であり、同時に悪でもある人間たちの、そして世界の運命は、ライラとウィル、ふたりの子どもたちの行動にかかっている。(2002.07.11)

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