【講談社】
『カラマーゾフの妹』

高野史緒著 

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 過去の偉大な作家が書いた小説について、その設定や登場人物をもとにしたオマージュ的な作品を別の作家が書いたりすることはさほど珍しいものではないし、この書評サイトにおいてもいくつか取りあげたことがあるのだが、そうした試みが非常に野心的なものであり、また話題性に富んだものであることはたしかでありながら、いっぽうで非常に怖ろしいものを含んでいることもまた事実である。なぜなら、作家はその作品を書くことで、必然的にその元となった偉大な作家と自分自身とを比較することを読者に要求することになるからだ。その作品の失敗は自分だけを貶めるにととまらず、元となった作品とその作家をも貶めることにつながりかねない。そういう意味において、オマージュ作品を書くことにはそれなりの覚悟が必要となってくるのだが、では何をもってその作品の成否を判断するのか、という点を考えたとき、けっきょくのところ、オマージュ作品のなかにどれだけ元の作家の作品に対する思い入れが詰まっているか、そしてそれを読む私たち読者が、どれだけその思い入れを汲み取ることができるか、という点に基本的には集約される。ここで「基本的には」という但し書きを含めているのは、それを判断する側も、その作品を書く側も、けっきょくはひとりの人間でしかなく、相対的な価値観から逃れられない以上、成否の判断そのものがある意味で傲慢だという前提をはっきりさせておきたい意図がある。

 人間はけっして完璧ではないし、神のように絶対的判断で物事を切り分けることができるわけでもない――今回紹介する本書『カラマーゾフの妹』は、そのタイトルからもわかるように、ロシアの作家ドストエフスキーが書いた長編小説『カラマーゾフの兄弟』のオマージュ作品、より正確には、書かれることのなかった第二部を作者に代わって完結させるという意図を明確にしたものであり、作中においてもしばしば著者自身が自身の言葉で、その意図するところを明言さえしているのだが、そうしたある意味で野心的な態度が、じつはこのうえなくオマージュ元である『カラマーゾフの兄弟』への強い思い入れを示すものであることを、まずは断っておかなければならない。

 おそらく今まで幾人もの作家が第二部の執筆を試みたのではないかと思われる。が、それが実現しなかったのは、前任者が偉大すぎたためだろう。――(中略)――だが、前任者のあの名作と同等の作品を書こうなどと思わなければよいのである。

 上記引用の直後に「我が前任者はその手掛かりや犯人の内面的動機について、実はすべての手がかりを書き込んでいるのである。」と述べているように、本書は『カラマーゾフの兄弟』におけるフョードル殺害の真相を明らかにする、というスタンスを前面に押し出している。それはそのまま、本書がミステリーとして『カラマーゾフの兄弟』という作品をとらえると宣言することを意味しており、じっさい、物語は事件から十三年後、今ではロシア内務省の特別捜査官になった次男イワン・カラマーゾフが、フョードル殺害の再調査のために故郷のスコトプリゴニエフスクに帰省するところからはじまる。父であるフョードルの墓をあばき、致命傷となった頭蓋骨の傷跡を再検分することで凶器を特定し、そこから誰が父を殺害したのかを導き出すための処置だったのだが、そこで明らかになったのは、凶器となったのは、長男ドミートリーが犯行にもちいたとされる銅の杵であることに間違いなく、フョードルの私生児と噂されているスメルジャコフの主張する棒状の文鎮ではないという事実だった。

 事件当時には時代的、宗教的な理由でとることのできなかった科学的分析をもって、過去の事件の真相に迫るという方向性が見えている本書であるが、この方向性は、そのまま人類の歴史がとりえる方向性ともつながるものだと言うことができる。科学技術とは、人類が世界を理解するために生み出し、模索し続けてきた武器だ。『カラマーゾフの兄弟』において、フョードル殺害をめぐる裁判の様子は、まるでその真相にたどりつくことのできない未熟で不完全な第三者的立場の人間が、それぞれ事件について勝手な意見を述べているにすぎないという、ある種の茶番めいたものを感じさせるものがあったのだが、今回のイワンの再調査は、科学を武器により客観的な視点でもって事件の真実の姿をあきらかにしていこうとする方向性が見て取れる。

 この科学という要素を象徴するもののひとつとして登場するのが、トロヤノフスキーと呼ばれる心理学者の存在だ。帝国科学アカデミーの若き秀才である彼は、心理学という、当時ではまさに最先端というべき新しい学問を研究する人物であり、過去の事件をつうじてイワンと面識のある彼は、本書においてイワンとともにフョードル殺害事件の捜査を協力することになるのだが、ここで登場する心理学という科学もまた、『カラマーゾフの兄弟』の時代においては明確にできなかったカラマーゾフ三兄弟――スメルジャコフを加えるなら四兄弟になるが――の心理的側面に迫るために著者が用意した武器のひとつである。

 犯罪捜査における科学技術の発達は、事件における犯人を特定し、その罪を償わせるという意味において、人類をより良い方向に導いていると言える。だが、そのいっぽうで本書は、科学技術がもたらす悪い方向性についても言及するのを忘れない。使い方しだいによっては、人を救うことも、また大量殺戮をおこなうことも可能な科学――かつて、スメルジャコフを精神的に追い込んでフョードル殺しの実行犯に仕立て上げたのではないかと悩むイワンは、その罪の意識に対して科学という人間の得た武器とともに、その真実と向き合う決意をした。それはある意味、神の永遠や不死性を否定しようと躍起になっていたイワンらしい態度であるが、その決意をしたのはあくまでイワン自身に他ならない。科学とは、あくまでそのための手段にすぎないのだ。

 そして、本書を語るにおいてけっして忘れてならないのが、三男アレクセイの存在だ。フョードル事件のときは見習い修道士として神に仕える身であった彼は、本書の時点では神職を辞し、結婚して故郷で教職についているのだが、その天使のような好青年ぶりは変わらず、町の人たちからの信任も厚い。『カラマーゾフの兄弟』のときには、その信心深さという点でイワンと対照をなす存在だった彼が、本書においてどのような位置づけになるのかという要素は、じつは本書の本質に深くかかわる部分でもある。くわしくはここでは述べないが、彼の性質に心理学という科学の視点が入り込んだときに、どのような一面が見えてくることになるのか――そしてその側面について、誰が何を思うことになるのかは、本書における最大の読みどころだと言っても過言ではない。

 人の心は化学物質や数式のようにはいかないはずだ。だからこそ人間の行いには、それがどんなに汚らわしいものでも何らかの魅力が宿っているのだ。人が何故残虐行為や犯罪のことを知りたがるのか――(中略)――己の魂の深遠に問いかけるがいい。その暗がりに潜む怪物は答えるだろう。俺はお前の一部なのだ、と。

 十三年前のフョードル事件の再捜査のさなかに起こる新たな殺人事件や、アレクセイの突然の失踪、さらには革命戦闘団によるロシア皇帝暗殺計画といった陰謀が絡んでくる本書は、著者独自の世界観――巨大でどこかレトロな機械とか、ロシアに対する知識や思い入れとかいったものをうまく生かしながらも、ミステリーとしての整合性をきちんと消化しつつ、まさにそれしかありえないという真相へと物語を着陸させるだけの力量と説得力を、たしかにもっている。そしてそれは、たんに犯人が誰かという点だけでなく、『カラマーゾフの兄弟』において大きなウエイトを占めていた、カラマーゾフ兄弟たちの内面的な部分にまで踏み込んだうえでの、まさに「完結編」というにふさわしい出来栄えである。少なくとも、その思い入れの深さというものの片鱗に、きっと触れることができるはずである。(2013.01.22)

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