【未知谷】
『かくも永き片恋の物語』
三島由紀夫のフラクタル宇宙  『豊饒の海』解読

柏倉浩造著 



 注意! 本書評には、三島由紀夫『豊饒の海』のネタばらしをしている箇所があります。

 物語そのものと、その物語の書き手である作者との関係というものを、しばしば考える。そこにあるのは創造物と造物主という、単純な上下関係なのだろうか。私はそうは思わない。物語は、作者がいなければ存在しえなかったのは確かだが、いったんその存在を許されれば、作者はその物語が読者にもたらすイメージを制御することはできなくなる。そのとき、物語と作者は対等なものとなる。いや、場合によっては物語が作者を食いつぶすことさえあるだろう。それはあたかも、この世界における人間と神との関係のようなものである。

 そして物語は、かつての読者であった評論家の手を通すことによって、まったく違った物語としてよみがえることもある。そういう意味で、評論というのは、新たな物語の創作行為だと言うことができるし、だからこそ面白い。本書『かくも永き片恋の物語』は、三島由紀夫がその晩年に書き上げた長篇小説『豊饒の海』に関する新たな解釈を展開した論文なのだが、その大胆な説は、まさに「新たな物語の創作行為」と言うにふさわしいものとして仕上がっている。何しろ、本書では『豊饒の海』を、本多の聡子への六十年にわたる片恋と、その成就の物語である、と論じているのだ。

 ところで、あなたは『豊饒の海』を読んだことがあるだろうか。夢と転生の物語とも言われる『豊饒の海』は、第一巻『春の雪』の和御魂、第二巻『奔馬』の荒御魂、第三巻『暁の寺』の奇御魂、第四巻『天人五衰』の幸御魂から成る壮大な四部作であるが、おおまかに言ってしまうと、第一巻の主人公たる松枝清顕が、第二巻では飯沼勲、第三巻ではジン・ジャン、第四巻では安永透と次々と転生し、それぞれが純粋な何か、つまり絶対の不可能を追い求めていくという転生の物語であり、同時にその四人の転生の証人として「観察者」の役割を与えられた本多繁邦の、六十年にわたって転生に翻弄される人生を描いた夢の物語でもある。

 三島由紀夫はなぜ、輪廻転生をテーマにした小説を書かなければならなかったのか。そしてなぜ、その大尾において、転生の奇跡そのものを全否定するという、考えようによっては物語世界におけるタブー、ルール違反を犯さなければならなかったのか――この、あまりにも有名な大尾の解釈によって、『豊饒の海』そのものが名作であるか駄作であるかの判断が分かれるようであるが、『豊饒の海』を論じるためには、少なくともこの大尾の問題はけっして避けて通ることのできないものだ。そして輪廻転生とその全否定に触れる以上、まるで意図したかのようにその直後に起こった、三島由紀夫の割腹自殺についても論じなければならない。

 これまで多くの作家によって数多くの物語が生み出されてきたが、『豊饒の海』というテクストほど複雑怪奇で、多くの謎を含み、しかも作者から独立したひとつの作品であるにもかかわらず、作者の影響力にあまりにも縛られつづけている作品が、いまだかつて存在したであろうか。実際、『豊饒の海』をあらためて読みすすめていくと、いろいろな疑問や、いわくありげな情景描写などが、いたるところに出てくることがわかるだろう。例えば、なぜ『春の雪』ではほとんど目立たない存在だった本多が、その最終巻『天人五衰』では完全に主役の座についているのか。ジン・ジャンの黒子がその時によってあったりなかったりするのは何故か? 後半の巻でときどき出てくる謎の老人は誰なのか? 本書が注目しているのは、その二重性である。そう、『豊饒の海』を、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』を包括するシリーズ名としてではなく、それだけで存在するひとつの物語――ひとつの独立したテクストとして取り扱うことで、そもそも誰が実在の人物であり、誰が幻の人物であるかを解き明かしていく。そして、『豊饒の海』と、その物語内物語である四つの物語――表で流れる物語とは別に、裏で流れている物語に読者の目を向けさせることで、自然と浮かび上がってくる結論が、「本多の片恋とその成就」になる、という構成をとっているのだ。

 先に私は、物語は生まれた瞬間から作者の意思を離れ、独立した存在となる、というようなことを述べた。それゆえに、私は基本的に、作者そのものにはあまり興味を抱かない。独自の命を得て、それぞれの読者のなかで輝き出す物語――だが、どんなに多くの物語を生み出そうと、その輝きに払拭されることなく、燦然と輝きつづける太陽のような作者というのがいるものである。本書の論文を読んでいくと、三島由紀夫という人物がいかに稀有な存在であったかを、あらためて思い知らされてしまう。それは、たんに彼が劇的な生と死を体現した、ということだけではない。本書のなかの言葉で表現するなら、私の「認識の目」が、作者の生きざまそのものに劇的な物語性を見出した、ということになるだろうか。認識の巨人、三島由紀夫が三十歳にして陥ったとされる「既知」の状態、そして自分の未来が現実以上の確定性をもって立ち現れてくる<未来の記憶>と、そうであるがゆえに、けっして手に届かないとわかっていながら望まずにはいられない<過去への希望>という、二重の罠によって引き起こされた、精神の自家中毒状態を考慮したとき、『豊饒の海』同様、三島由紀夫の人生そのものも、まるでメビウスの輪のように、あるいはウロボロスの連環のように、どこか閉じ込められてしまった感がある。本書は、その無限ループの一箇所を断ち切り、物語をしかるべき形に収束させることに成功した。そういう意味で、本書は著者の、三島由紀夫に対する「かくも永き片恋の物語」と言うにふさわしいものであるだろう。

 ちなみに、本書の副題にある「フラクタル」とは、コンピュータによって描かれるマンデルブロ集合の幾何学模様のことを指す。その模様は、どれだけ拡大して見ても、どれだけ縮小して見ても、同じような図形が永遠に現われつづけるという。どれだけ転生を繰り返してもけっして救われることのない、無意味な連続体でしかない『豊饒の海』を、どうやって片恋とその成就の物語へと昇華しているのか、その大胆な三島由紀夫論を楽しんでもらいたい。(2001.01.14)

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