【新潮社】
『聖母の鏡』

原田康子著 



 他人に迷惑をかけることなく生きていきたい、という思いについて、ふと考えることがある。これは言いかえるなら、どんなことであれ自分のことは自分で判断し、自分で実行し、その結果については自分が責任を持つ、ということでもあるが、ジャングルのなかでたったひとりで生きていくというのならともかく、大勢の人々との結びつきと約束事によって成立している人間社会のなかで生きている以上、誰であれ生きること自体が、ある意味自分以外の誰かに何らかの負担をかける行為につながっていると言うことができる。ようするに、誰にも迷惑をかけることなく生きる、という考え方は、いっけん高潔なもののように見えて、じつは裏をかえせば極めて自己中心的なものでしかなく、結果として周囲をかえりみない、知らず知らずのうちに他人に迷惑をかける行為につながってしまう考え方でもあるのだ。

 男と女が出会い、愛し合い、そして生活をともにするようになる――私は人に語れるほど恋愛経験が豊富なわけではないが、それでもふたりが、けっしてお互いの迷惑や負担になりたいがためにいっしょになるわけではない、ということくらいはわかるつもりだ。「人はけっしてひとりでは生きていけない」という言葉は、もはや使い古された感があるが、こと恋愛に関して言えば、それは「たったひとりで人生を過ごしていくのは、あまりにも寂しすぎる」ということでもあると私は思う。人はひとりでも生きていける。だが、心のかよいあう誰かとともに生きていけるのであれば、たとえそのことによってさまざまな負担や迷惑が生じることがあったとしても、それはひとりのとき以上に素晴らしい時間を過ごすことになるのではないだろうか。

 本書『聖母の鏡』について簡単に説明するなら、ともに50代という人生の黄昏時を迎えた男女の恋愛を描いた作品、ということになる。熟年どおしの恋というと、ロバート・J・ウォラーのベストセラー『マディソン郡の橋』などが挙げられるかと思うが、本書の大きな特長のひとつは、のちに出会うことになる男女がこれまで歩んできた、けっして短くはない過去や、彼らがその人生において関わることになる人たちとのつながりといった、個人の歴史をしっかりと肉付けしていくことで、ふたりの微妙で繊細な心の動きをより鮮明に描き出そうとしているところであろう。

 ふたりがはじめて出会うのは、スペインのグラナダ、ビブランブラ広場。元国際便の長距離トラック運転手だったミゲルは、念願の退職金をもらって故郷のアンダルシアへ戻ったとき、妻のイネスの失踪を知った。娘のマリアが結婚してすぐの出来事だったのだが、ミゲルはその事実を4年間も知らずにいたのである。将来はミゲルの故郷で暮らしたい、という妻の願いだったが、その妻の行方がどうしてもつかめず、さらに母も天寿をまっとうした以上、故郷にいつづけるのはあまりにもつらい――そう思いながらも、娘夫婦のなかば強引な引き止めもあって、彼は故郷の家でひとり暮らしをしている。

 いっぽうの顕子は、陽光のまぶしいこのスペインに、死に場所を求めてやってきた日本人だった。北海道の釧路湿原で生まれ育った顕子は、外科医の小早川和彦と結婚するものの、人を救うという使命感に燃えている、将来有望な医者としての夫と、これといって何の取り柄も技能もなく、ただひとつだけあったピアノの演奏からも遠ざかってしまった自分との差を思い悩むあまり、別の男と家を出て再婚、結果として和彦を自殺に追いやってしまった、という過去をもっていた。

 いっぽうに妻に逃げられた男がいて、いっぽうに元夫から逃げ出し、今の夫とも離婚しようとしている女がいる。どちらも結果として、家庭を築くことに失敗したふたり、ということになるのだろうが、本書ではそうした生の虚脱感や喪失感といった負の感情がメインとなって、ふたりの恋愛感情が進んでいく。顕子が生まれ育ち、和彦の死のイメージとともに、顕子の心に宿ってしまった釧路湿原――冷たい霧におおわれ、底無し沼であるヤチマナコがあちこちに広がっている湿原のイメージが、思いがけずミゲルがつれていった故郷の村にある泉と結びついてしまう、という偶然は、そのまま本書の底辺に流れる恋愛観を物語っていると言うことができるだろう。

 釧路湿原で死ぬことをあきらめなければならなかった顕子は、ミゲルの故郷でまさに顕子の心に宿った「死に場所」としての湿原を見つけることになったのだ。だがミゲルにとって、その泉は失踪した妻と将来を約束しあった場所である以上に、顕子に自身の胸のうちを告白した場所、言ってみれば自分の人生をもう一度歩いていく決心を固めた場所であり、このふたりのあいだにわだかまる差異がどう変化していくのかが、恋愛小説としての本書の読みどころである。

 ミゲルと顕子との関係には、若者に特有の情熱的な、後先考えない激しい恋愛とはまた違った、熟年であるがゆえのちょっとした心理的駆け引きのようなものがあったりして面白いのだが、何より見事だと思うのは、ともに生活するようになってから格段に増えてくる料理や食事のシーンが、ふたりの生きることへの喜びと深く結びついている点だ。じっさい、ミゲルと出会ってからの顕子はじつによく食べるようになり、ミゲルもまた食事をおおいに楽しむようになる。そこには性の歓び、セックスがもたらす歓びだけではけっして表現することのできない、べつの愛の形がたしかにある。

 ノートを見て、作ってみたいと思ったことがないわけではない。しかしね、うまそうであればあるほど、いったい、だれと喰うのかと考えてしまう。アキコ、食事というやつは楽しい語らいがあってこそ味も引きたつものなんだよ。

 考えてみると、ミゲルにしろ顕子にしろ、結婚していながらこうした「楽しいの語らい」とはほとんど無縁の人生をおくってきた、という意味でも共通の土台をもっている。顕子が死に場所を求めていることを薄々感じつつも、ミゲルはそのことについてはけっして詮索せず、とりあえず料理をし、ともに食事をとることで、顕子を生の方向へと導こうとする。そうした、けっして押しつけがましくない思いやりには心打たれるものがある。

 人間は生きている以上、誰かに迷惑をかけずにはいられない。ときには、多くの人の人生を狂わせてしまうことだってあるかもしれない。だが同時に、誰かの心の支えとなったり、ともに助け合って生きていくこともできるはずだ――本書はたしかに熟年どおしの恋愛小説ではあるが、それ以上に人間の生と死を深く見つめた作品でもあると言うことができるだろう。(2003.09.29)

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