【講談社】
『神曲法廷』

山田正紀著 

背景色設定:

「因果応報」という言葉がある。もともとは仏教用語のひとつで、良いことも悪いことも、自身の行なったことがいつかかならず何らかの形で自分にはね返ってくる、という考えであるが、現実の世の中を見てみると、そんな都合のいい法則めいたものが本当にありえるのかどうか、疑問に思わざるを得ない事柄がいくらでも転がっていることに気がつく。極悪非道なことをしている人間が権力を盾に、裁かれることもなくのうのうと生きのびているのはなぜなのか。また、生まれつき体に大きな障害を負っている人や、生まれてまもなく死んでしまう赤ん坊の不幸は、ほんとうにその人の責任なのか。私は仏教にかんしてはけっして明るくはないが、思うに、「因果応報」というのは、自分が他ならぬ自分自身を律するための決意表明のようなものではないだろうか。自分を律するということは、自分の行為の善悪を自分で判断して良いことを成し、悪いことを抑え、もし自身の行為が悪であり、他人に多大な迷惑をかける事柄であったと判断すれば、そのことに対して自分を罰することも厭わない、ということでもある。だが、とかく自分を甘やかし、楽なほうへと流されていきがちな弱い私たちは、どこまで厳しく自分を律していくことができるのか、という疑問はつねに付きまとう。

 いっぽうで、仏教には「輪廻転生」という考え方もある。自分が今生きている世界を現世として、自分の生まれる前の前世で、自分は今とはまったく別の人間の生を生きており、また現世での自分が死んだ後も、来世ではまた違う人間としてふたたび生まれ変わる、というもので、これが「因果応報」と結びつくと、現世での不幸は前世で成した悪のせい、という論理が成り立つことになる。だが、そうした考え方は、近代以降「個」の概念――個人としての権利や個人的所有の概念といった近代的合理主義とはまっこうから対立するものでもある。なぜなら、「輪廻転生」がもし事実であるとすれば、私たちが「まぎれもない私」だと思いこんでいるものすべてが崩壊し、自分が自分であるという前提がすべて覆されてしまうからだ。自分はもしかしたら、自分以外の誰かであるのかもしれない、いや、それよりも恐ろしいのは、まぎれもない自分などというものは最初から存在せず、じつは人間存在そのものが底知れぬ「空白」でしかないのでは、という可能性である。

「まぎれもない私」が「空白」であるとすれば、そこにはそもそも生もなければ死も存在し得ない、というなんとも奇妙で不思議な世界が立ち上がってくる。本書『神曲法廷』はまぎれもないミステリーであることはたしかだが、にもかかわらず、本書ほどミステリーをミステリーとして成立させる徹底した論理からかけ離れた作品も珍しい。それというのも、本書のなかで探偵役となって事件の真相を追うことになる佐伯神一郎にしてからが、自分の意思ではなく、はるか形而上の存在ともいうべき冷徹な何ものかの意思によって、事件を解決することを強制されているからである。

 警察もマスコミもついにこの事件の本質にせまることはできないだろう。
 それというのも、この事件の本質は、人間界というより、むしろダンテ『神曲』の凄絶な“地獄”に根ざしていて、その犯行も動機もとうてい常人の理解のおよぶところではないからだ。

 東京地検の刑事部に勤務する検事、佐伯神一郎は、しかし「独立した法律家」としての建前と、司法独立の原則とはあまりにもかけ離れた日本の司法の現実とのギャップにどうしてもなじむことができず、東京地検の上層部にも、警察当局にも白い目で見られつつ、それでも仕事をつづけていくうちに精神を病み、今は休職中の身となっていた。無為な日々のなか、唯一心の拠り所となっているのは、かつての彼が耽溺していたダンテの『神曲』を読みふけること。そんなある日のこと、彼の先輩にあたる東京地検公判部の検事、東郷一誠から、「神宮ドーム」の設計者で、建築界では異端の天才とも呼ばれている藤堂俊作を探し出してほしい、という依頼を受ける。東郷は現在、その「神宮ドーム」で起きた火災事件に関する公判を受け持っており、その公判で彼の発言が必要な状況にあるのだが、肝心の本人は、ドーム完成後に行方をくらましているのだという。そして藤堂もまた、ダンテの『神曲』に深く入れ込んでいる人物だった。

 本書はその冒頭から、ダンテの『神曲』のイメージに強く彩られている。漏斗状に何層もの階層で構成されているという地獄を、まるで倒立させたかのような構造を連想させるものがある「神宮ドーム」の内部、そこで起きた、死者八名という大惨事となった火災事件、そしてことあるごとにダンテの『神曲』を連想し、その妄想に強く囚われて現実との境界を見失ってしまう佐伯神一郎に、かの堕天使ルチフェルを思わせるような、美貌の青年の存在――まぎれもなく現実の世界にいるにもかかわらず、まるでダンテとともに地獄の門をくぐり、まさに『神曲』の地獄篇の世界に入り込んでしまったかのような一種の幻想世界のイメージは、そのまま本書のなかで起きる連続殺人事件の異常性、超常性を、ひときわ引き立たせる役割をはたしている。

「神宮ドーム火災事件」の公判が、まさに開かれようとしていたその日、金属探知機でいっさいの凶器を持ち込むことができないはずの東京地検内部、「公衆控室」のなかで、鹿内弁護士が何かの凶器で心臓を一突きされて殺害され、さらに大月判事もその日のうちに、法廷の被告席で首を絞められ殺されているのが発見される。凶器をもちこめないはずの部屋のなかで、誰が、どのようにして凶器をもちこみ、鹿内弁護士を殺害したのか。そしてその事件のために警察やマスコミが殺到していて、いわば密室状態になっていたはずの裁判官室から、大月判事はどうやって誰にも見咎められることなく殺害場所である法廷まで移動したのか。なぜ同じ日、同じ東京地検内部で、「神宮ドーム火災事件」を担当するはずだった弁護士と判事が殺害されたのか。そしてそこには何者の、どのような動機が存在しているのか――もちろん、本書がミステリーである以上、たしかにそこにはトリックがあり、しかるべき謎の解明が用意されているが、重要なのは個々の殺人事件のトリックを解き明かしていくことではない。むしろ、本書のトリックについては、タネが割れてしまえばじつになんてことのないものなのだ。

 だが、本書でおこった一連の殺人事件がダンテの『神曲』と――神や悪魔、天国や地獄といった神話の世界と結びついたとき、そのなんてことのないトリックを貫くものの存在が、とたんに圧倒的な存在感となって読者に迫ってくることになる。

 おそらく、その視線の主は、“復讐する者”であるのだろう。どんなにも残酷にも、どんなにも冷酷にもなれるものなのだろう。
 正義を実現するためには、容赦なく人を罰し、この地上から抹殺することをためらわない。
――(中略)―― 一方的にそんな最後通告を宣言して平然としているものなのだ。

 弁護士、検事、判事など、そのタイトルに「法廷」とあるように、本書は法曹界を舞台としたミステリーであり、そこには法律や裁判制度に関する知識も豊富で、それゆえにいろいろと教えられることも数多い。それもまた本書の大きな特長のひとつであるが、そのなかでももっとも重要なことは、けっきょくのところ「人が人を裁く」ということに対する限界にある。

 警察も弁護士も、そして裁判官も人間である以上、どんなに調査や考察を繰り返したところで、物事の判断に100%の確信を得ることができるわけではない。にもかかわらず、絶対に間違えることなく悪人を裁かなければならない、というおおいなる矛盾――本書はあきらかに、人間の生み出す論理、つまり現在の法曹界ではけっして真相にたどりつくことのない事件を現出させることで、人間の論理の、しいてはミステリーにおける探偵役が披露する推理の限界を明確にしようとする意思がある。だからこそ、この一連の事件を推理する探偵役の佐伯神一郎もまた、論理の力ではなく、ダンテの『神曲』との連想から、直感としての推理によってその真相に到ろうとする。そう、けっして論理ではないのだ。だから当の本人でさえ、その直感が何を意味しているのかわからないまま、ただ何かに突き動かされていくのみなのである。

 そこには、個人としての人間の意思など無きに等しい。あるのは、人間にはけっして手の届かない形而上の論理によって、ただ翻弄されていくだけの、ちっぽけな人間の姿だけなのだ。だからこそ、本書は恐ろしく、そして人間の心の深層にあるものをゆさぶってやまないものをたしかに秘めている。

 もしかしたら、「因果応報」というのはあるのかもしれない。悪いことをした者であれば、たとえそれが情状酌量の余地のあるものであっても、なんらかの形でかならず当人にはね返ってくる大いなる法則が、じつはこの世界を支配しているのかもしれない。はたしてあなたは、本書の結末をどのように受け止めるだろうか。(2005.11.24)

ホームへ