【早川書房】
『スローターハウス5』

カート・ヴォネガット・ジュニア著/伊藤典夫訳 



 日本人の私が「戦争」と言うと、まずは第二次世界大戦を思い浮かべることになるのだろうが、日本の「戦前」を見事なまでに解体してしまった、私が生まれる前の敗戦にこだわらずとも、世界は常にどこかで戦争の火種を抱えていたし、じっさい局地的な紛争は、世界のどこかで必ず起こっていた。それは今なお変わらないし、もしかしたら未来においても変わらないのではないかとさえ思えてくるのだが、戦争によってもたらされるものがあるとすれば、それはおそらく「解体」という事実だけであろう。

 それは何も、自分たちの住んでいる町や国、あるいは生きた人間といった、目に見えるものの破壊だけを指すのではない。戦争が「解体」していくもの、それは、私たちがあたり前のように享受している日常生活であり、兵士として戦場に駆り出されていく者たちの、およそ人間らしい想像力や思いやりの心といったものであり、人々が先祖から脈々と受け継いできた美しい文化や芸術である。私には国の命令によって兵士として戦場に駆り出された経験もなければ、自分の住んでいる町が爆撃機によって空襲されるといった経験も持ち合わせてはいないが、それでもたとえば、日本人兵士のシベリア抑留の体験を書いた石原吉郎の『望郷と海』といった本を読めば、戦争がおよそ、人間としてあるべき理性をことごとく麻痺させていく代物であることくらいはわかってくる。そして、戦争で死んでいった多くの人々の存在が、最終的にたんなる「死者の数」という記号として処理されたとき、彼らはただたんにその命を不条理に失ってしまったばかりでなく、彼らひとりひとりがたしかに個性をもち、何かに笑ったり泣いたり怒ったりして生きてきた人間だったという事実さえも、「解体」させられたことになるのだ。

 本書『スローターハウス5』という、このなんともとらえどころのない作品は、その冒頭部分を信じるなら、著者自身が体験したドレスデン無差別爆撃のことを書いた小説だということになる。ドレスデンとはドイツの都市の名前で、1945年2月、連合軍の爆撃によって135,000人の死者が出たとされている町のことだ。著者はドイツ軍の捕虜としてその場に居合わせ、そして生き残った人間のひとりであるが、そんなある意味壮絶な体験を小説として書きあげるのに、著者は「けいれん的時間旅行者」であるビリー・ピルグリムという、著者と同じ立場にいた人物を登場させている。

 「けいれん的時間旅行者」として時の流れから解放されたビリーにとって、人生はもはや過去から未来へと一方的に流れていくたぐいのものではなく、あるときは大富豪の娘との幸せな結婚生活を営む男性であり、あるときは検眼医としてはたらいている男性であり、まだ小さな子どもであったかと思えば、次の瞬間にはドイツ軍の捕虜となっているという、およそ脈絡のない人生のある瞬間を、まさしくけいれん的にジャンプしていくようなものとなっていた。自分がこの世に生を受けた瞬間も、自分が死ぬ瞬間も認識してしまったビリーの物語には、もはや明確なはじまりも終わりもない。そういう意味では、本書はその瞬間から物語としての意味を「解体」されてしまった、ということになる。

 そしてきわめつけなのが、ビリーの人生のある期間を占めている、異星人のUFOに拉致され、彼らの星の動物園に収容されるというエピソードである。ビリーのこまぎれにされた人生のなかでも、とりわけ異彩をはなつこのエピソードは、本来は著者の体験記であったはずの本書からリアリティを「解体」してしまうことになるのだが、とりわけ興味深いのは、ビリーを拉致したトラルファマドール星人の、時間を連続体としてではなく、その全瞬間を直感的に認識するという考え方であろう。

 トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。――(中略)――彼らはこういう、“そういうものだ”。

 時間を因果関係としてではなく、その始まりから終わりまで同時的認識としてとらえた瞬間、私たちが当然あると考えている自由意志は「解体」され、代わりにあるべき未来のとおりに行動すべきである、という必然性のみが立ち上がってくることになる。これが意味するところは明確だ。なぜ人間は戦争を引き起こすのか、なぜ人間どおりで殺し合わなければならないのか、なぜ大量殺戮などということが起こってしまうのか――こうした「なぜ」という、いまさらどうすることもできない事実をあえて問わずにはいられない精神そのものを、本書は放棄してしまっているのだ。あるいはこんなふうに言うこともできるだろう。著者が体験したドレスデン無差別爆撃がもたらしたものは、「なぜ」と問うこと自体がむなしくなるほど壮絶なものであったのだ、と。

 本書のなかにもあえて書かれているが、この小説には人間らしい性格をもった登場人物はひとりも出てこない。およそ人間らしさといったものを「解体」された登場人物たちが、得体の知れない巨大な力にただただ翻弄されるだけの人形でしかないことを認識したうえで、著者は私たち人間が持ちえているありとあらゆるものが「解体」された世界を、本書のなかで展開させていった。そう、本書は「解体」の物語なのである。そう考えたとき、ビリーが誰かの死という重い事実を語るときに必ず発する「そういうものだ」というつぶやきが、たんなる軽薄さを超えて大きな意味をもってくる。人間はどのような形にしろ、いつかは必ず死を迎えなければならないのと同じように、その人生において起こるさまざまな不条理もまた、けっきょくは避けられないものとして迎えるべき要素でしかない、ということなのだ。

 未来から過去へ、そしてまた未来へ――時の流れを完全に無視した形でつづられていくビリーの物語を読んでいくうちに、私たちもまたそれまで当然のものとしてもっていたさまざまな価値観が「解体」されていくような感覚に陥っていく。そうした精神状態で、本書のラストで起こるドレスデン無差別爆撃によって、動くものの何もない、まるで月面のような世界をまのあたりにしたとき、私たちはまさに、著者がそのとき感じたなんとも形容しがたい虚無感を、同じように味わうことになるだろう。ようするに、そういうものなのだ。(2004.02.28)

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