【白水社】
『馬を盗みに』

ペール・ペッテルソン著/西田英恵訳 

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 子どもにとって父親というのは、権威の象徴であり、ある意味で絶対的な存在でもある。もちろん、それは守られる側にいる子どもだからこその主観が見せる相対的な認識であって、父親は父親である以前にひとりの男であり、またひとりの人間にすぎないのだが、彼の子どもとして生まれてきた以上、父親は人間である以前に父親であるという認識の逆転が発生するのはやむを得ないことである。そしてその認識は、子どもが大人になり、自身が父親と呼ばれる立場になったとしても、何かの刷り込みのように頭のどこかに残っているものでもある。

 父親が父親としての存在でありつづけることが、子どもにとって幸せなことなのか不幸なことなのかは置いておくとして、父と子という関係の絶対性はあくまで役割的なものでしかない。もしその絶対的な関係がどこかで崩れるとしたら、それはいったいどの時点なのだろうか。そしてそのとき、子どもは、父親はどんな思いをいだくことになるのだろうか。

 彼はただそこに座っているだけだが、父親の不在を純粋に、そして率直に寂しく思っているのがわかる。父親がいなくて寂しい、それだけで、それ以上ではない、わたしの場合もそんなふうにわかりやすければよかったのにと思う。

 本書『馬を盗みに』に登場する語り手のトロンド・サンデルは六十七歳、ノルウェーの東のはずれにある、森と湖を臨む小さな家を購入し、そこにひとりで暮らしている。それは、三年前に妻を亡くした彼が長年のあいだ望んでいたライフスタイルであり、体のほうもいたって健康ではあるが、やがて来るであろう厳しい冬の予感、そしてあと二ヶ月で二十世紀が終わるという時期も相まって、どこか陰鬱で不安な雰囲気が漂う。だが、何より彼のなかの何かを変えるきっかけとなったのは、ある隣人との出会いによるものだった。ラーシュ・ハウグと名乗ったその隣人の存在は、トロンドにある過去の出来事を思い出させた。それは彼が十五歳のとき、父とともに夏を過ごしたスウェーデン国境近くにある小さな村で、仲良しだったヨンの双子の弟の名前でもあったのだが、あの夏の日、ラーシュはヨンがうっかり弾をこめたまま出しっぱなしにしていた銃を暴発させ、同じ双子のオッドを殺してしまったのだ。

 はたしてトロンドが夜の森で出会ったラーシュは、あのラーシュなのか? という当然の疑問とともに進んでいく本書であるが、物語の本筋は語り手の今よりも、むしろその出会いによって想起された過去の出来事のほうにこそある。やがて長い夜と雪によって閉ざされてしまう、老境の語り手が迎えつつある北欧の冬と対比を成すような、光り輝く豊かな自然とともにある過去の記憶とのコントラストが見事な本書であるが、彼が思い出した過去の記憶は、けっして楽しいものばかりではない。「馬を盗みに行く」と少年だった語り手を誘い、いっしょに他愛もない遊びに興じていたヨンは、その日を最後に姿を消してしまい、それとともに彼のなかで無邪気だった何かもまた終わりを告げようとしていたのだが、大きな悲劇だったとはいえ、それはあくまで子どもが引き起こした事故でしかない。だが語り手の記憶は、まるでその悲劇の要因をさぐっていくかのように、彼の父親のほうへと向けられることになる。

 語り手の記憶にある父親は、しょっちゅう家を空けていて、どんな仕事をして生計を立てていたのかもよくわからないという父親像だ。にもかかわらず、牧草地や木立のある土地をもっていて、第二次大戦後には語り手をそこに連れ出すだけの余裕をもってもいた。その資金は、はたしてどのようにして捻出したのか、なぜその場所だったのか、そして母や姉ではなく、語り手だけをそこに連れてきたのは何のためなのか――それらの謎を解く鍵となるシーンは、他ならぬ語り手の記憶のなかにあり、それはつまるところ、かつて少年だった語り手が見聞したことであるのだが、それらのシーンが意味するところを理解とはいかなくとも、ある程度推察できるようになったのは、すでに老年となった語り手の視点があるからこそだと言える。

 子どもの頃はよくわからなかったり、とくに何も感じないまま受け流してきた事柄が、大人になってあらためて思い返してみると、不意にその意味するところが理解できたりすることがある。本書の語り手の場合、六十七歳という老齢になってようやく思い出すという流れとなっているのだが、この語り手の年齢設定は、けっして意味のないものではない。それは彼自身が、「父親」や「夫」といった社会的役割から解放され、ひとりの男、ひとりの人間としての人生を歩き出した時期であり、彼の記憶のなかにある父親の言動と向き合うには、そうした視点が必要だということを意味してもいる。

「痛いかどうかはな、自分で決めるんだ」

 かつてイラクサだけを避けて草刈りをしていた語り手に対して、父親は上述の台詞とともに素手でイラクサを引き抜いていくというシーンがある。イラクサには無数の棘があり、触れば刺さって手が痛むのはわかっている。だが、それが必要なことであると自身で決めたことであるなら、その痛みをすべて背負ったうえでそうしなければならない。語り手の回想に出てくる父親の言動の意味するところは、ミステリーのごとくそのすべてが明らかにされるわけではない。だが少なくとも、父と子という関係だけでは見えてこなかった何かが、そこにたしかにあったということだけは、読者にも伝わってくる。

 自然は老人となったトロンドにも容赦ない。来るべき冬から逃れるかのように思い出される少年時代の夏の日差しは、しかしただ暑くまばゆいだけのものではなかった。人生の晩年、ふたたびひとりの人間としてそれまでの人生を変えることを決意した語り手は、はたしてその痛みとどのように向き合うことになるのだろうか。(2011.11.04)

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