【講談社】
『スロウハイツの神様』

辻村深月著 



 何よりも物語を愛する私にとって、その物語を生み出していくクリエイターたちの存在には、どれだけ尊敬してもしたりないものがあると言える。小説家にしろ、漫画家にしろ、映画監督にしろ、あるいはゲームクリエイターにしろ、もし彼らの存在がなければ小説や漫画や映画やゲームは生み出されることはなく、もしそうなっていたら、今の私という存在もまたありえない。嗜好品や娯楽性というものは、たしかに人が生きていくうえで必要不可欠というわけではない。だが、そうしたものを排除した先に待っているのは、おそらくおそろしいほど無味乾燥な世界だろうという確信がある。

 なぜ人は物語を――ひとつの世界を創造しようとするのだろうか。漫画家の水樹和佳子はとある雑誌のコラムで、「ヒトは《美》を感受しなければ生き残りにくい弱い生物」だからと語る。たしかに、生き残るのに必要なものが少なければ少ないほど、生物としては強い。純粋に食べ物や住む場所といったもののほかに、《美》という余計なものまで生きるのに必要だとするなら、それはずいぶんと面倒くさく、また難儀なことでもある。だが同時に、水樹和佳子はこんなふうにも語っている。「だからこそヒトの世界はあらゆる《美》で満ちている」と。他の生き物にとっては、ただあるがままに存在しているに過ぎないものに対して、人はときに《美》を見出さずにはいられない。感受性が強いからこそ見出すことができる《美》――それが人としての弱さであり、だからこそ私たちが生きていくのに嗜好品や娯楽性といったものが必要だとするなら、クリエイターが行なっている物語の創作は、私たち人間が人間でありつづけるための手助けをしてくれている、ということになる。

 たとえば誰かが自殺して、その子の部屋にチヨダブランドがあったとする。だとしたら、僕はその事実を受け止めなければならない。僕の書いたものでは、その子をこの世界に留めるには足りなかったんだという、そのことを認めて責任を負わなければならない。

 本書『スロウハイツの神様』の舞台となるのは、西武池袋線沿線にある三階建ての小さなアパートだ。「スロウハイツ」と名づけられたそのアパートは、もともと旅館だった建物を改装したもので、部屋数は全部で六つ。そしてそこに住んでいるのは、脚本家や映画監督、漫画家、画家といったクリエイティブな仕事に就くことを望んで日夜努力しているクリエイターの卵たち。アパートのオーナー自身が、大学三年生のときにデビューして以来、現在も人気急上昇中の脚本家、赤羽環ということもあって、入居者の面々がそれぞれ濃い個性をもつクリエイターばかりになっているという設定は、本書のなかでも指摘されているように、かつて漫画の神様手塚治虫を中心に、今ではビッグネームとなった漫画家たちが集い、同じ屋根の下に住んで漫画を描いていたという「トキワ荘」のエピソードを髣髴とさせるものがあるのだが、本書における手塚治虫の地位にいるのは、赤羽環ではない。神様の居場所は「スロウハイツ」の二〇二号室、中高生から絶大な人気を誇り、その一連の作品が「チヨダブランド」という名前を冠される小説家、チヨダ・コーキこと千代田公輝である。

 感情過多で綺麗過ぎる世界しか描こうとしない児童漫画家志望の狩野壮太、逆に極端なまでに人間臭い感情を廃した物語しか築こうとしない映画監督の卵である長野正義、人に対するやさしさと画家としての才能を持ち合わせていながら、自身を営業していくことのできない森永すみれなど、本書に登場する「スロウハイツ」の住人たちは、それぞれの欠点に悩み、クリエイターとしてなかなか認められないことに焦りを感じながらも、なお自身の信じる道を突き進んでいく。そのいっぽうで、クリエイターとして輝かしい道を歩んでいると思われている赤羽環や千代田公輝が、過去にどれほどの苦労と苦悩を抱え込み、それをどのように受け止めて今にいたっているのか、という過去の視点を織り交ぜたうえで、現在の物語が進んでいく。

 負けん気が強く、人一倍反骨精神を持っている赤羽環と比較することを止められず、それゆえに衝突し、ついに「スロウハイツ」を出て行かざるを得なくなった円屋伸一の代わりに、千代田公輝の熱烈なファンだと自称する加々美莉々亜が入居し、千代田公輝の手がけたシナリオを丸々パクッたような漫画が話題となり、正義と付き合っていたすみれが別の男性を好きになり、といったイベントは、それ単体が独立した物語というわけではなく、いずれも何らかの形で赤羽環や千代田公輝の過去へとつながっている。ただし、そのつながりは物語の最後、ミステリーで言うなら探偵が登場人物をひとつの場所に集めて謎解きをはじめるまでは巧妙に隠されていて、なかなか表に出てこないばかりか、にわか探偵たちによるミスディレクションがいかにも真実であるかのように、物語のいろいろなところに配置されていたりする。本書を最後まで読み終えた読者は、この物語が他ならぬ赤羽環と千代田公輝のふたりを中心とした作品であることをこのうえなく納得することになるのだが、本書の最大の特長は、ミステリーにおける謎解きによって、それまで私たちが読んできた物語によりいっそうの深みが加わり、それまで私たちが思い込んでいた登場人物たちの人物像がガラリと様変わりしていくという点にこそある。

 本書にかぎらず、著者の作品にはいずれもけっこう凄惨な事件が発生する。事件そのものが凄惨というのではなく、その事件によって傷つけられた人たちの姿をまっすぐにとらえていく視点が痛々しい、というのが著者の作風であるが、本書の場合、十年前に起きた集団自殺が千代田公輝の書いた小説に影響されたものであるとされた報道であり、また赤羽環がデビュー作の題材として選んだ、詐欺師の母親のことと、そのことでメチャメチャになった彼女の家庭の事情のことを指している。そしてこのふたつの事件と、そこから歩んできたふたりの現在の立ち位置もまた、どこかでつながっている。著者は基本的に登場人物たちの心理を描き出していくのに長けた作家であるが、こと本書においては、その複雑で微妙な心理を、物語の流れやミステリーの謎解きの要素として組み込んでいく手法が神がかっていると言える。ミステリーの手法にこんな劇的な使い方があるのか、とあらためて驚かされる。

 十年前の事件の大きな痛手から立ち直り、あらたなシリーズを今も書き続けている千代田公輝、そんな彼の作品をこよなく愛し、それを支えとして脚本家としての道を走り続ける赤羽環――物語は、千代田公輝がけっしてただ優しく純粋なだけでなく、強さも併せ持っていることを描き、赤羽環が人と衝突することを常に覚悟し身構えている強さだけでなく、このうえない優しさを併せ持っていることを描く。そしてそれは、彼らふたりだけでなく、そのほかのクリエイターの卵たちも同様であることを物語っていく。人としての強さと優しさ――それは、何より人が《美》なくしては生きられない弱さゆえに生まれてくるものであることを、本書は何よりも雄弁に物語っている。(2007.12.06)

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