【文芸社】
『青春の波涛』

藤井信哉著 



 人が日記をつける理由というのはそれぞれ違っているものだろうが、たとえばウェブ上で公開している日記のように、誰かに読まれることを前提としたようなものは除くとして、日記というものは基本的に、自分が唯一の書き手であり、同時に唯一の読み手であるたぐいのものだ。だからこそ、人は日記のなかに自分の素直な気持ちや考えを書きつづることができるのだし、また後になって日記を読み返したときに、変に飾ったり体面をつくろったりしていない、等身大の自分の姿を発見することになる。

 私もかつて、そうしたたぐいの日記をつけてみたことがある。けっきょく、1ヶ月ももたなかったのだが、その時はちょうど、人生の目的そのものを見失ってしまった時期でもあって、もう一度自分自身を見直さなければ、という焦燥が、私に日記を書かせたと言うことができるだろう。そういう意味で、本書『青春の波涛』は、あくまで自分ひとりだけのものである日記――いくつもの不幸に満ちた人生への苦闘ともいうべき日々に対する、まぎれもない著者のまっすぐな感情を綴った記録を、あえて本の形にした作品である。

 日記を付けない時は、安泰の時である。

 本書に収録された日記は、1959年6月14日から1965年6月6日までの、約6年間である。その6年のあいだに、著者は腎臓・膀胱の結核を患って高校を中退しながらも、通信制の高校を卒業、採用試験に合格して国家公務員として就職、そしてその職場で出会った女性との初恋とその破局を体験している。もちろん、個人的な日記という形式であるため、読者に対する説明的な文章はいっさいない。しかし、10代から20代にかけて、もっとも青春を謳歌すべき時期に重い病気で長期療養を必要とした、という意味で「死」と向き合い、また心の底から大切に想い、また必要としていた女性と、それでもなお別れなければならなかった、という意味で「愛」と向き合った著者の、大きく揺れ動く心の様子がありのままに伝わってくるのは、本書がある意味、日記という、書き手の心がむきだしになる表現形式であるがゆえだと言えるだろう。

 血尿が出るたびに自分の体に不安をいだき、度重なる治療代のためにいさかいを起こす家族に憂い、自分を置いて先へと行ってしまう同級生を前にして、自分だけが時間に取り残されてしまったかのような焦燥感にさいなまれ、世の中の役に立たない自分に、自分でもどうすることのできない苛立ちを覚える――いっそのこと死んでしまいたいと思い、それでもやはり生きていかなければ、と自分を奮い立たせる心の動きの極端さは、おそらく似たような体験を経てきた方であれば、ある程度はわかるのではないだろうか。その心はけっして美しくはなく、むしろ利己的で醜くさえ映ってしまうものでもある。

 ありのままの、むきだしにされた人間の心――他人のことはわからないが、少なくともこれまで大きな病に罹ることもなく生きてきた私にとって、むきだしの人の心というのは、できれば触れたくない、目にしたくないもののひとつだ。そして正直に言えば、著者のように長く病気や怪我で苦しんできた人たちが苦手でもある。というのは、彼らが重病を患っていることを後ろ盾に、自分が何をやっても許されると思いこんでいるのではないか、とついつい勘ぐってしまうからだ。もちろん、すべての人たちがそうだと言うつもりはないが、彼らにひと言、「あなたに私に気持ちがわかるものか」と言われてしまえば、そこですべての会話の手段が閉ざされてしまう。そんな態度に、どうしても理不尽さを感じてしまうのだ。

 おそらく、若い人たちの大半が、おそよ意識することさえない「死」の問題――自分がいったい何のために生きているのか、自分の内にどれだけ醜い心が巣くっているか、という深刻な問題に、否応なく直面せざるを得なかったある若者の、血を吐くような心の叫びが、本書のなかにはたしかにある。そして、悔しいときに悔しいと思い、悲しいときに悲しいと思う気持ちに忠実である本書のなかの著者の存在は、たとえば小さい頃から本心を隠しつづけてきたあげく、自分の本当の気持ちさえわからなくなったまま大人になってしまった人たちの心に、何かうったえるものがあるのではないだろうか。純粋に自分のために書かれた日記が、不特定多数の人たちに読まれる意義があるとすれば、この一点にこそあると信じたい。

 若い頃に何の苦労や挫折を経験することなく、エリート街道まっしぐらで生きてきた人たちが、いざリストラの対象となったり病を患ったりしたときに、とたんに腑抜けのようになってしまうということが、中高年のサラリーマンを対象によく見られるようになっている、と言われている。自分の「死」と、純粋な「愛」に揺さぶられ、多くの涙とともに生きてきた著者の青春は、けっして無駄にはなっていない。そんな確信にも似た思いをいだかせる作品である。(2002.10.11)

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