【早川書房】
『あなたのための物語』

長谷敏司著 



 たとえば、ふだんは健康な人が病気になったりして体調を崩すと、まるで別人のように弱気になったり、あるいはこらえ性がなくなったりして驚かされることがある。他ならぬ私自身にしても、熱が出て何日も寝込んでしまうようなときがあるのだが、そのたびに、いつも自分の思い通りに動いてくれるはずの体に裏切られたような気分になってしまう。そのどちらが本物の「彼」なり「私」なのかを問うことは、じつはあまり意味がない。ただ、そこから見えてくるのは、個人の人格というものが、思いのほか物質的な肉体というものに依存しているところがある、ということだけである。以前読んだ池谷裕二の『脳には妙なクセがある』でも、たとえば人はおかしなことがあるから笑うのではなく、笑うという顔のしぐさが「おかしさ」の感情を引き起こすという現象を脳科学の方面から分析していて興味深かったのだが、そんなふうに考えると、肉体というのはけっして個性に従事する道具などではなく、むしろ私たちの心そのものが肉体を生かしつづけるための道具なのではないか、という気さえしてくる。

 そう、私たちは人間には「心」があると信じている。少なくとも私を他ならぬ「私」たらしめている、何かに笑ったり泣いたり怒ったりする自分自身の存在を信じて疑ってはいない。だが、「心」がどのような形をしていて、体のどの部分に宿っているのか、じつは誰にも明確には答えられない。わかるのは、相対として存在する肉体が受けた刺激を、同じく相対たる脳が処理しているという事実だけだ。物質としての肉体――私たちはこの肉体という限られた枠を超越することを、ときに望むことがある。だがそれが現実のものとなったときに、はたして肉体を失った自分の心が自分という個を保ちつづけることができるのだろうか。今回紹介する本書『あなたのための物語』を読んで、私がまず感じたのは、そうしたひとつの命題である。

 二十一世紀末になっても人は死に続けていた。誰の番もかならず来て、自分自身の体から逃げることはできない。――(中略)――間近に迫った彼女の死は、百年前、千年前の動物じみたもののままだ。彼女はそのとき、ことばも意味も文明の力も借りられず赤裸で死ぬのだ。

 西暦2083年の未来を舞台とする本書では、その冒頭でいきなりひとりの女性が死を迎える。彼女の名はサマンサ・ウォーカー。ニューロロジル社の共同経営者にして研究者でもある彼女は、脳神経と電動義肢とをつなぐ人工神経の分野の第一人者であり、また世間からは輝かしい未来を約束された成功者と見なされていた人でもある。彼女の技術は宇宙開拓時代の時流にのって大きく躍進し、サマンサとその会社に莫大な富をもたらしていたのだ。しかしながら、この物語の冒頭で示された彼女の死は、けっきょくのところサマンサという名の物語の結末であり、迎えるべき終わりを無慈悲に読者に突きつける。そう、本書を手にした読者は、この物語がサマンサの死で終わることを意識して読み進めることを強要されることになるのだ。そしてその点にこそ、本書を通底するテーマがある。

 上述の引用にもあるように、科学技術の進歩は今なお死を克服することができずにいる。そしてそれは、人間がかかえる病についても同じことが言える。治療法の見つかっていない特殊な免疫疾患にかかり、余命わずかだと宣告されたサマンサは、人間が何千年も前から逃れることができずにいる死という運命に恐怖し、またその理不尽さに憤る。現状への大きな不満は、オレゴンの田舎娘でしかなかった彼女を今の地位にまで駆り立ててきた原動力である。そしてその原動力は、今度は死そのものを克服しようという方向へと動いていく。科学による死の超越――サマンサには、それを可能とするひとつの方策があった。

 サマンサは擬似神経技術のエキスパートである。その技術は、これまではおもに義肢と脳神経のスムーズな連結という方面で利用されてきたが、彼女はそのさらに上の段階に目を向けていた。苛酷な環境で手足を欠損しても、安価でそれを補う技術は確立された。そしてそれを可能にしたのは、プログラム言語で記述された人工神経である。これは原理的には、人間の脳神経をすべてプログラム言語で置き換えることが可能であることを意味する。たとえば、ある技術に熟練した人間の神経をコピーして、別の人間の疑似神経回路として連結させれば、その人は何の苦もなくその技術を身につけることが可能だということである。

 人間が、なりたいと思うものになることができる未来――それが、サマンサの目指していた次の目標だった。だが、肉体を蝕む病はその夢を彼女から奪う形となった。そしてこの肉体というままならないものをかかえているかぎり、人はいつまでも死の恐怖をかかえたままだ。ならば、その肉体を捨ててしまえばいい。自分の脳神経をすべてプログラム言語に置き換え、人工神経だけの存在になれば、「死なない」自分になることができる……。

 と、こんなふうに本書のことを紹介していくと、まるでグレッグ・イーガンの『順列都市』のような展開を思い起こさせるが、本書の場合、仮想世界の概念がまだまだ希薄であり、仮に人工神経だけの存在になって死から自由になったとしても、それ以上の不自由に縛られることになる。病によって引き起こされる耐え難い苦痛は、サマンサの人間としての尊厳を少しずつ壊していくことになるのだが、そこに至らないほど錯乱しているわけではない。それに、もし自分を人工神経としてコピー可能であったとしても、それはあくまで自分をコピーしただけであって、肉体から今の「自分」が脱却できるわけでも、病が引き起こす苦痛から逃れられるわけでもないのだ。

 じつのところ、本書に物語として期待されうる展開を望むことはできない。何より本書の最後はすでに確定されており、内容も一貫して死という終着点へと向かっている。だが、にもかかわらず本書に読みどころがあるとすれば、それは死を逃れられないサマンサという人物が、本書のなかでどのような心情上の変化を迎えることになるのか、という点である。そして、そのための比較対象として用意されたのが、≪wanna be≫と名付けられた仮想人格である。

 ≪wanna be≫は人間の脳神経モデルを、疑似神経制御のためのプログラム言語をもちいてつくられたもので、理論的には肉体をもたないだけの人間と同等のものだ。人間の意志や意味を脳内で作り出す言語「ITP」のかかえる問題点――現実世界が色あせて見えてくるという「感情の平板化」の解消のため、実験的に生み出された≪wanna be≫は、物語を書くというきわめて人間臭い目的をあらかじめ組み込まれている。そして本書におけるサマンサと≪wanna be≫との関係性は、肉体の有無および目的意識の有無という意味で、両極端なものである。

 目的意識を自分で探し出す自由がありながら、何より肉体の死からは自由になれないサマンサと、目的を他人からしか与えられないにもかかわらず、死という運命からは自由でいられる≪wanna be≫――本書の読みどころは、この両極端なふたりの関係性そのものだと言うことができる。それは言い換えれば、お互いがお互いにどのような影響を及ぼすことになるのか、ということであり、さらに言うなら、人間がなぜ人間でありつづけられるのか、というラディカルな命題に踏み込んでいくことでもある。

<≪私≫は、≪私≫の書く物語をあなたに読んでほしい。それが≪私≫が存在する意味です>

 死というのは、誰にでもかならずやってくるものでありながら、その経験はただ一度しかできず、しかもそうなればすべてが失われてしまう。私たちが体験できる死とは、あくまで他人の死をつうじてのものでしかない。だが、他ならぬその性質ゆえに、私たちはもしかしたら人間らしさをたもっていられるのではないか、という思いが、本書のなかにはたしかにある。はたしてあなたは、このけっして軽くはない本書のテーマに、どのような思いをいだくことになるのだろうか。(2014.03.22)

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