【集英社】
『聖家族』

古川日出男著 

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 東北というと思いだすのが、昔SF好きな友人に勧められた半村良の『2030年東北自治区』という作品で、この世界ではたしか、移民や伝染病の流入を防ぐという名目で、東北の五県が日本から独立、完全閉鎖のユートピアを築くという話だった。似たような話としては、東北の小さな農村が独立を宣言するという井上ひさしの『吉里吉里人』というのもある。あるいは、これは東北ではなく北海道だが、村上龍の『希望の国のエクソダス』の中学生たちは、ネットビジネスの成功を元手に、北海道に自治体を設立、事実上日本から独立していく。

 東北は昔、陸奥、あるいは「みちのく」と呼ばれ、そこに暮らす人たちは朝廷の支配に殉じない「まつろわぬもの」として、中央から忌み嫌われていたという歴史をもつ土地でもある。たとえば、高橋克彦が描く『火怨』という作品は、そんな「みちのく」に視点を置いた歴史小説であるが、こうした作品群における東北地方の扱われ方、あるいはその歴史というものを考えたとき、東北という地は今でこそ日本という国の一部ではあるものの、いっぽうではけっして時の権力に恭順しない反抗精神、正統であり、中心であろうとする大きな流れに与することを潔しとしないない者たちが集い、あくまで独自のルールに従って生きていこうという力強さを今もなお保持している、と言うことができる。たとえ今現在、そこに住んでいる人々の性質からは消えてしまったとしても、土地そのものがもつ歴史――もしそこに意識とでも言うべきものがあるとすれば、そこには「まつろわぬもの」としての記憶が残っているのではないか。今回紹介する本書『聖家族』を読むと、そんなふうに思わせる何かが、東京から見て鬼門にあたる東北という土地にはあるような気がしてならない。

 正統ではない、というのはどういうことか。歴史で言うなら正史ではない、ということ。つまりは滅ぼされた国なり民族の伝えてきた記憶。あるいは、そもそものはじまりから、何かに記録されるということを前提としていない何か。
 正統ではない、というのはどういうことか。地理で言うなら中心ではない、ということ。そこは東京ではなく、かつての中心だった京都でもない。そして日本でありながら、同時に「日の本」とも呼ばれていたもうひとつの日本。

 本書のなかには物語はない。いや、それは私たちが慣れ親しんでいる形での「物語」ではない。そこにあるのは、小説という言葉でひとくくりにすることができない小説であり、既存の物語の構造にはあてはまらない規格外の物語でもある。それゆえに、本書に対して何かを評するという行為そのものが意味をなさなくなる。それが本書という存在であるが、それでもなお、何かを評するとすれば、どうなるだろう。

 タイトルに『聖家族』とあるくらいだから、家族が登場する。家族を構成する人物が。狗塚家。言うなれば、本書は狗塚家の物語である。牛一郎と羊二郎とカナリアの三兄妹の物語。だが、物語の始まりの時点で、次男の羊二郎は死刑囚として拘置所の独房にいる。彼にとってその場所はひとつの行き止まりであり、終着点であり、彼はそこから動けない。動かないし、時間もとどまっていく。当然、疑問が生じる。このような結果になった原因は何なのか。そして物語は、このひとつの終点を起点へと変じるために動き始めることになる。

 まずは、その家系を遡ることで。三兄妹の祖母である狗塚らいてうの物語、さらに彼女の祖母にあたる狗塚はくてうの物語、さらにその祖母である狗塚シラキジ。面々と続く鳥の名前をもつ「ばば様」の歴史は、ここがすべての始祖となる。この時点で時間は江戸時代にまで遡っている。彼女たちは鳥だ。だから、飛ぶための翼をもつ。じじつ、三兄妹のカナリアは、故郷から飛び立って南へと向かう。これが扉の一。

 同じようにふたりの兄弟も南下する。牛一郎と羊二郎。自らの体を凶器と化す記録されない拳法を会得し、さらに自身を鍛えるため、東北各地にちらばる失われた拳法をその身に宿すための流浪。だが、純粋に殺人のための拳法は、現代というこの平和な時代にはあきらかに異質なもの。やがてふたりは警察や暴力団といった組織を敵に回し、それでもなお戦い、あるいは逃亡をつづける。ここで、冒頭の結果へとつながる原因の一端は明かされる。しかし、それがすべてというわけではない。そしてこれが、扉の二。

 静から動へ。移動していく人々。そういう意味では、三兄妹の両親も東北各地を移動している。天才と称された学者の、いわばフィールドワークとして。いつの時代なのかはわからない。そもそもそうした情報は意味がない。ただし、彼らを突き動かすのは「記憶」ではなく「記録」。なぜなら、三兄妹の父親である狗塚真大には、「記録に合わせて現実を修正する」力があるから。ゆえに、記録されていないものは無に等しい。だからこそ、この親と兄妹との接点はない。接点はないが、きわめて近い場所で知らず隣り合う。そしてそこは、ふたりの兄弟の兄が辿り着いた地点でもある。これが、扉の三。

 そう、本書は移動というベクトルに突き動かされた物語である。北から南へ、そして南から北へ。たとえば幕末。新撰組の生き残りは、京都から北へ北へとその戦場を移していく。たとえば会津藩。戊辰戦争で滅亡し、しかし本州最北の地に再興を許された人たちは、しかしそこからさらに自身のいるべき土地を再び南に求める。そして、三兄妹のカナリアのふたりの子どももまた、奇妙な事情に巻き込まれた結果として東北地方を北上することになる。そしてこれが、扉の四。

 本書の世界において、時間はけっして過去から未来へと流れるものではない。あらゆる秩序や論理に「まつろわぬ」物語である本書は、ゆえに時の必然からも解放され、物語としての無限の広がりをもつことになる。そして本書にはありとあらゆる記憶がある。犬の記憶があり、渡来人の記憶があり、烏天狗の記憶があり、馬の記憶がある。時間を止めた都市があり、「地獄の図書館」があり、「見えない大学」がある。そうしたさまざまな要素が渾然一体となって、ひとつの円環が生まれる。あたかも、東北を南下と北上というベクトルで円を描くように、独房という終点からはじまった物語は、時間と距離をめぐりめぐった果てに、最初の地点につながることで、まるでウロボロスのごとき形を生じさせることになる。これが、扉の五であり、物語の終わりであると同時に始まりでもある。

 提示された五つの扉で構成される本書は、その全体像を俯瞰したときに、はたしてどのような形を与えられることになるのか。その場かぎりの映像や音楽、記録されることを拒む本や家系――そうした形なきものに対して、言葉の力をもって形を与えていくことを常に作品のテーマとしてきた著者の手で構築されたのは、私たちが見たこともない東北の土地であり、その歴史でもある。あるいは「みちのく」の記憶。正統からはずれ、それゆえに存在しないことにされていたもの――そうしたギミックを虚構であるところの物語にもたせることで、あたかも秘めたるリアルとしての位置づけを与えることに成功した作品、それが本書の仕掛けでもある。

 著者の手によって再構築された東北というひとつの異世界――はたしてあなたは、その世界で何に遭遇し、どこに向かっていくことになるのだろうか。(2009.04.06)

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