【集英社】
『夏と花火と私の死体』

乙一著 
第六回ジャンプ小説・ノンフィクション大賞受賞作 



 恐怖という感情について考えてみたときに、まず思い浮かべるのは、未知のものに対する恐怖だろう。どんなに凶悪な殺人鬼であろうと、どんなに未曾有の大災害であろうと、その正体さえはっきりしてしまえば、じつはあまり怖いものでないことは、映画「エイリアン」の続編が、敵の正体がすでにはっきりしているがゆえに、もはやホラーではなくなってしまったことを考えれば充分だろう。これまでの経験や知識の範囲を逸脱した出来事というのは、人の想像力をいたずらに膨らませるものだ。誰もいないはずの部屋で人の声がする、すぐそばを、何かの影がよぎる――未知のものに対して、その未知の部分をなんとか補おうとしてめぐらせずにはいられない想像力こそが、恐怖という感情の源泉となっているのだ。

 だが、いっぽうで、恐怖の対象がはっきりしているにもかかわらず引き起こされる恐怖というのもある。それは、明らかに異常な出来事が進行しているにもかかわらず、誰ひとりとしてそのことに気づいていない、あるいは異常だと感じていない、という状況で起こる恐怖である。この場合に恐怖を感じるのは、異常を異常と感じている当人、ということになるのだが、その人は異常な出来事そのものに恐怖するのではなく、異常を異常と感じない状況そのものに恐怖する。それは、一歩間違えれば自分がそれまで信じてきたすべてを崩壊させかねない、自己否定の恐怖、自分が無になってしまう、という想像力が引き起こす恐怖へとつながっていくものなのだ。

 そういう意味で、本書の表題作である『夏と花火と私の死体』というタイトルは象徴的だ。というのは、「夏」「花火」という、なんの変哲もない単語のつながりのなかに、不意にまぎれこむ「私の死体」というミスマッチな単語は、人々の夏の思い出としては幻想的な風物詩を、たちまち得体の知れないものへと変貌させてしまう力を持っているからだ。そして、このタイトルがもたらす得体の知れない雰囲気は、そのまま物語の中へも引き継がれていく。

 物語の語り手となるのは、五月という名の女の子だ。9歳というから、まだ小学校の低学年くらいだろう。学校は長い夏休み、同級生の弥生とは一番の仲良しで、弥生の兄である健と3人で毎日のように一緒に遊びまわっている。森や田畑が身近な自然として溢れている小さな町の、ごくごくありふれた夏の風景――だが、この小さな語り手はこのあと、弥生のちょっとした悪意によって、あっけなくその命を落とすことになる。そして、物語の登場人物としてはすでに退場してしまったはずの五月は、しかし物語の書き手としての役割からは解放されないまま、死んだ後も物語を語りつづけることになる。

 本書における「死」とは、いったい何なのだろう。言うまでもないことだが、死んでしまった人間の体は、基本的にモノと同等である。そして生きているときにたしかにあったはずの、その人の意識が死んだらどうなるのか、知っている者は誰もいない。未知のものに対して抱く恐怖――だからこそ「死」というものは、人間にとって大きな恐怖の対象なのである。

 恐怖という感情が、想像力と密接な関係にある、ということは、上でも述べた。物語は五月の死後、この死体を誰にも知られることなく永遠に葬り去るべく、健と弥生の兄妹が知恵をしぼり、大人たちを子ども特有の無邪気さで騙しつつ、死体を隠し、移動させていく様子を描いていくことになるのだが、はたして死体を無事処理することができるのか? というテーマ性はもちろんのこと、ひとりの人間の死という、あまにも重い事実にまったく無関心なまま、まるでゲームを楽しむかのように「死体隠し」に熱中する健や、五月を死なせてしまったという事実よりも、むしろそのことがバレてしまうことをひたすら恐れている弥生、そしてあまりにもあっけない自身の死を、まるで他人事のように語りつづける五月も含めて、読者はおそらく、本書の中に何かとても重要なものが欠落しているがゆえに感じずにはいられない異常性を見出すことになるだろう。そしてこの、ある意味では残酷でさえある物語の中には、「死」を想像する力というのが決定的に欠落している、ということも。

 本書には表題作のほかに、『優子』という作品も収録されている。これは、鳥越家の手伝いとして働いている清音が、その家の主人の妻である優子がじつはただの人形であり、主人の政義が人形を妻だと思いこんでいるだけなのではないか、という疑惑を深めていくことから生まれた悲劇を描いた作品であるが、この作品も含めて、著者である乙一の生み出す物語は、登場人物たちの感情を表現する部分が極端に少なく、そのぶん周囲の情景描写が丹念になされている、という印象が強い。そして、物語のあいだにふと差し挟まれる情景描写のなかに、登場人物たちの感情を代弁させるという手法は小説ではおなじみのものであるが、本書の場合、そこに含まれているのが得体の知れない「何か」だけである、という点で、まったく独自の世界を形成していると言うことができるだろう。

 そんなわたしたちを夜に浮かび上がらせていた花火の滝も終わりに近づく。そして、唐突に、まるで人の生き様のひとつのように、まるではかなく激しい人生の終りのように最後の光の花びらを散らした。
 そうして光の洪水は消え、人々の心の中にだけその残り香をとどめる。
 それを待っていたかのように、夏の夜の闇がわたしたちの上に翼を拡げた。

 これだけを取り上げると、夏の花火大会の光景を叙情的な筆致で表現した文章、ということになるのだが、その「わたし」がすでに死人であり、その死体のかたわらでくすくすと笑い声をあげている女性がいて、そのことを何気なく語る「わたし」がいる――あきらかに異常な事柄が進行しているにもかかわらず、誰もそのことを異常だと思っていないかのような、得体の知れないその光景は、幻想的であればあるほどどこかおぞましく、理屈抜きで読者の脳裏に焼きついて離れることのないものとなる。そしてそれはただひとり、本書を読んでいる読者だけが感じる恐怖なのだ。

 日中の強い陽光の名残を今もなおとどめているかのような夏の夜、そんな夜の闇をほんの数瞬、あざやかな光の乱舞で彩っては儚く消えていく花火――電気が生み出す安定した光の世界に慣れきった私たちは、花火のような化学反応が生み出す不安定な光によって、夜の闇がなおいっそう深く濃く感じられることに気づく。あなたははたして、その暗闇の奥に何を見出すことになるだろうか。(2002.04.19)

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