【みすず書房】
『処刑電流』

リチャード・モラン著/岩舘葉子訳 



 私たちが普段あたり前のように利用し、もはや私たちの生活からは切っても切れないものと化している電気が、じつは非常に危険なものであることを思い知らされるような事件が、中学校の理科実験室で起きたのを覚えている。事件の内容はきわめて単純で、同じクラスの友人がテーブルに備えつけられていたコンセントの穴に、遊び半分で細い金属の棒を突っ込んだという、それだけのことだったらしい。らしい、というのは、けっきょく私はその瞬間を直接この目でとらえたわけではなく、気がつくと彼が感電して倒れており、そんな彼の変化に教室が騒然となっていたのだ。さいわい、大事にはいたらなかったものの、その友人が二度と同じような事をやらかそうとしなかったところを見ると、それは彼にとって相当痛い思いをさせられた体験だったのだろうと推測はできた。

 雷の直撃を受けて人間が死亡するというケースを考えれば、人体に多量の電気が流れたときにその対象が死にいたる、と考えるのはごく普通のことだ。だが、その電気という代物がどのようにして人間の命を奪っていくのか――たとえば、そのエネルギーが熱変換されて対象を焼き殺すことになるのか、あるいは電気が人体の生命維持をつかさどる器官を速やかに破壊することで生命活動を停止させることになるのか――ということについては、意外にも今もってはっきりしたことはわかっていないらしい。中には雷に直撃されても生きていたという話も聞くし、心臓の停止した患者にたいしては、逆に電気ショックをあたえることで蘇生させるという医療技術もある。今回紹介する本書『処刑電流』は、アメリカにおける処刑方法、とくに電気処刑という奇怪な方法がなぜ採用されるにいたったのか、という点にアプローチを試みたノンフィクションであるが、本書を読んでまず驚いたのは、電気椅子による処刑がその対象を速やかで苦痛のない死へと導くものだと考えられていた、ということである。

 当時のアメリカの処刑方法として主流だった絞首刑は、必ずしも囚人を即死させるわけではなく、ちょっとした不手際で首の骨が折れなかった場合は苦しみのあげくの窒息死になってしまうことも多かったという。これは、今の日本の処刑方法が絞首刑であると考えれば、今もなお残っている問題のひとつだと言うことができるのだが、刑罰としての死刑ができるだけ残酷な形にならないように、という流れを理解するためには、死刑の歴史を理解する必要がある。かつて公開処刑がおこなわれていた頃、死刑には「目には目を」的な復讐や見せしめの側面をもっていたが、文明国が近代化の流れを受け入れていくにつれて法や司法の意義が重要性をもつようになり、その法によって執行される死刑が残忍で暴力的なものである場合、人々はかえって法への嫌悪をかきたて、犯罪を増長させる傾向があると判断されるようになっていた。

 現在極刑として死刑が採用されているのは日本とアメリカくらいで、世界的な流れでは死刑は廃止の方向に傾きつつあるという。それはまさに法治国家としての権威の問題と結びつくからに他ならないのだが、それでもなお死刑を存続させようとすれば、必然的にその処刑方法に目を向けざるをえなくなってくる。本書が死刑に関する問題を掘り下げるにさいして、その具体的な処刑方法に目を向けたのは、まさに死刑が人の命を奪う行為である、という根源的な部分を思い出させたという意味では慧眼だと言えよう。そして本書のメインである電気椅子による処刑が採用されるにいたる過程を追うことであきらかになってくるのは、そこに関わることになる人々のことごとくが、その根源的な問題から目をそむけ、あるいは問題をすりかえ、あるいはないがしろにしていく過程であり、その結果として「人道的」の意味が大きく歪んでいったことである。

 たとえば、電気椅子の発明に大きく関与した人物として、アメリカの発明王として有名なトマス・エジソンの名前が挙がっている。白熱灯を発明し、夜を昼に変えた「メンロパークの魔法使い」は、同時に電気を街に供給する電力会社のオーナーであり、また抜け目ない企業家でもあったが、彼の会社はライバル会社であるウェスティングハウス社との熾烈なシェア争いを繰り広げていた。エジソンとウェスティングハウスとの大きな違いは、そのシステムが直流であるか交流であるかの違いであったが、時代の流れは確実に交流へと傾きつつあった。自分の発明に絶対の自信をもち、自分が創立した分野で常に第一人者でありたいという自分本位な頑固さゆえに、エジソンはあらゆる手段を使って交流システムを攻撃しつづけてきたという事実が本書のなかにはある。エジソンが電気椅子による処刑の実施にひと役買った背景には、「迅速で苦痛のない死」とはまったく関係ない部分――電気処刑を交流システムと結びつけることで、ウェスティングハウスの評判を貶めようとする意図があったのだ。

 それはいかにもアメリカという、なにより市場原理がモノをいう資本主義国家らしい出来事だと言えなくもない。だが上述のような、科学技術の発達がもたらす市場原理の醜い争いも、あるいは本書の後半で述べられている、電気処刑がじっさいに執行されるまでのあいだ、法廷の場でさんざん行なわれてきた論争――電気椅子が本当に「迅速で苦痛のない死」を実現できるのか、さらには電気処刑が残酷で異常な刑罰かどうか――も、本書の冒頭で克明に描写される、現実の電気椅子による処刑の様子と比較したとき、私たち読者はその無味乾燥さ、あるいは私たち人間が心の奥で抱え込んでいる、何か得体の知れないグロテスクさを思い知らされることになる。人の命を奪うという厳然とした事実と対峙していながら、それを直視しようとしなかった人々の姿を提示することで、本書はあらためて「死刑」の根源的な意味を浮き彫りにすることに成功したと言ってもいいだろう。

 公開処刑から非公開処刑へ、絞首刑から電気処刑へ、電気処刑から病院用寝台へ――これらの変化はいずれも、処刑のプロセスをより人道的に見せて死刑反対派を懐柔しようとする試みだった。だが誰も語ろうとしない真実は、私たちが守ろうとしているのは私たち自身の人間的感情にほかならないということだ。

 あなたは日本の処刑方法である絞首刑を、じっさいにその目で見たことがあるだろうか。本書が焦点をあてているのはアメリカでの電気処刑ではあるが、その底辺を流れるテーマに気がついたとき、堀の奥の、一般人の目の届かないところでひっそりとおこなわれていく日本の死刑執行について、さらにはたとえ合法とはいえ、人が人を殺すことを認める死刑という制度について、あるいは私たちはもう少し関心を寄せるべきなのかもしれない。(2005.06.21)

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