【ランダムハウス講談社】
『サラエボのチェリスト』

スティーヴン・ギャロウェイ著/佐々木信雄訳 



 人はいつかかならず死ぬ。それはこの世に生まれてきた以上、誰もが受け入れなければならない自然の摂理であるが、たとえば老齢に達した人や、重篤な病に侵されているような人でないかぎり、私たちは他ならぬ自分自身の死というものについて、意識することはほとんどないと言っていい。死んだらどうなるのか、死後の世界というものがあるのかどうか、生きている人間にはけっして知ることのできない謎であり、だからこそ人は、そのわからない「死」という現象を不安に思い、また死を怖れたりもする。

 死と向き合う――それは自分のことであれ、他人のそれであれ、悪いことではないものの、けっして日常的なものではない。あまりにあたり前すぎてふだん意識することすらないことかもしれないが、死を意識せずに日々の生活にいそしむことができるというのは、私たちが考えている以上に貴重なものなのだ。逆にいえば、常に死を意識して生きていかなければならない生活というのは、けっして普通のことではないし、また普通のことになってはならないことでもある。それが、他人の手によって理不尽に命を奪われるような「死」であるとすれば、なおさらのことだ。

「サラエボ・ルーレットね」エミナが言う。「ロシアン・ルーレットよりずっと複雑なのね」
 ドラガンが笑う。おかしかったからではなく、そのとおりだ、と思ったからだ。

 今回紹介する本書『サラエボのチェリスト』において、その中心となるのは、タイトルにも登場するひとりのチェリストである。だが、彼が物語の主体となるのはその冒頭のみであり、じっさいに物語を動かしていくのは、同じくボスニア内戦下のサラエボに住む三人の男女である。ボスニア独立に反対するセルビア人勢力による、首都サラエボの住民への無差別攻撃の犠牲となった人たちの鎮魂のため、銃弾の飛び交う街路に出て、身の危険を顧みることなく「アルビノーニのアダージョ」を演奏しつづけたというそのチェロ奏者の行為は、それだけでもセンセーショナルなものがあり、私たちの心を強く惹きつけるものがあるのはたしかだ。しかしながら、そんな彼は本書のなかで名前すら明かされていない。つまり、本書におけるチェリストという人物は、多分に象徴的な意味合いを帯びていると言うことができる。

 かつて、サラエボ交響楽団の首席チェロ奏者だった彼が象徴するもの――それは、サラエボの人たちが無くしてしまった、あるいは無くしかけているもの、あえて言葉にするなら「人間らしさ」ということになるだろうか。サラエボの住人たちは、いつ終わるとも知れない包囲戦のただなかで、常に命の危険にさらされながらの生活を強いられている。絶え間ない砲撃によってその町並みはひどく蹂躙され、瓦礫を取り除くことさえもかなわない。包囲網のために街の外に逃れることもできず、医療品や食糧はもちろん、電気や水といったライフラインにも事欠く彼らは、生きていくために食糧や水を求めて外に出なければならない。だが、町の周囲の丘に陣取っているスナイパーたちは、まさにそんな人たちを標的に狙撃をつづけているのだ。

 それまであたり前のようにできたはずのことが、あたり前でなくなるということ――道を歩くのに建物の陰を選んで移動し、通りを横切ったり橋を渡ったりするたびに、敵のスナイパーに撃たれるかもしれないという恐怖と戦わなければならないサラエボの人たちの生活は、極端な緊張の連続が日常化することによって、ずいぶん前から人として当然あるべき生活からかけ離れたものとなっている。じっさい、本書に登場する三人の男女のうち、ケナンは町で唯一水を汲むことのできるビール工場跡で敵の砲撃を受けるし、ドラガンは知り合いの女性が目の前で狙撃されるのをまのあたりにする。だが、ドラガンは自分も撃たれるかもしれないという恐怖でその場を動くことができないし、ケナンは多くの死傷者が出ているなか、それでもポリタンクに水を詰めるという本来の目的を忘れない。女性のアローにいたっては、都市防衛のために駆り出されたカウンター・スナイパーとして、町を包囲する敵兵を日々狙撃する立場にある。

 この三人の登場人物の日常は間違いなく普通ではなく、それは多かれ少なかれ内戦下のボスニアに住む人たちすべてにあてはまるものでもある。こうしたボスニア内戦の苛酷な現実については、たとえばゴードン・スティーヴンズの『カーラのゲーム』といった作品でも書かれていることであるが、本書のテーマは、そうした苛酷な状況のなかにあって、人がどれだけ「人間らしさ」をたもっていくことができるのか、ということであり、その中心に位置するのがくだんのチェロ奏者である。

 人が生きていくのに本当に必要なものは、はたして何なのか、ということを、本書は常に読者に問いかけている。水や食糧がなければ、人は飢えて死ぬしかない。それらは、生物としての生命維持のためには必要不可欠なものであるが、それでは他の動物となんら変わりがないことになる。他ならぬ人間として生まれてきた以上、人として生きていくためには、そうしたもの以外の何かが必要なのだ。ただ生きているだけ、というのは、人として生きていくのに必要な条件かもしれないが、充分な条件ではない。

 チェリストの奏でるチェロの音色は、音楽という娯楽に属するものであるが、そうした音色を耳にした人々が、なんらかの感情を想起することで、忘れかけていた「人間らしさ」に気づかされる――美しいものを美しいと感じる心、人の死をたんなる事実として処理するのではなく、その死を悼む心、そうしたものが、じつは人として生きていくうえでこのうえなく大切なものであることを、本書は何よりも雄弁に物語っているし、だからこそ本書の中心は一種の象徴でなければならなかったとも言える。なぜなら、本当に重要なのはチェリスト自身や彼の奏でる音楽そのものではなく、それを耳にし、そこから何らかの感情を引き起こされるサラエボの住人たちの心なのだから。

 好むと好まざるとにかかわらず、そして遅かれ早かれ、われわれはみな幽霊になる。――(中略)――それでも、われわれには幽霊としてではなく生きた時間も存在する。その違いを知る必要がある。それを忘れたら、とたんに、みなが幽霊になってしまうだろうから。

 本書を読み終えてあらためて思うのは、人はどれだけ過酷な環境のなかにあったとしても、チェロ奏者が象徴するような「人間らしさ」というものを、完全に忘れ去ることはできないのではないか、ということだった。アローにしろ、ケナンにしろ、ドラガンにしろ、じつはそれぞれがちょっとしたこだわりを持っているし、そのこだわりに固執することで、ぎりぎりのところで自分を保っているようなところがあるからだ。それは、マクロの局面からすれば、ほとんど何の意味もなさない、ごくささいなことでしかないのかもしれない。だが、たとえばたったひとりのチェロ奏者の奏でるメロディーが、自分でもよくわからないそうしたこだわりこそが「人間らしさ」の最後の砦なのだということに気づかせてくれるのであれば、そこにはたしかに大きな意味が出てくる。

 人は弱い生き物だ。ひどく弱くて、脆い心をもっている。それは、恐怖や脅しによって容易に屈してしまうところがある。だが、そんなふうであっても、自分のなかにあるたしかな人間性というものを完全に捨て去ることは、けっして容易なことではない。そして、だからこそ人として生きることの苦悩がある。だがそれは、美しいものを美しいと感じ、人の死に哀しみを覚える「人間らしさ」でもあるのだ。はたして、サラエボのチェリストが成した行為は、あなたの心にどのような思いを想起することになるのだろうか。(2009.04.15)

ホームへ