【東京創元社】
『リバーサイド・チルドレン』

梓崎優著 



 お金ではけっして買えないものがある、という格言めいた言葉を何度か耳にしたことがある。それはたしかにその通りであるし、むしろことさらに強調されるまでもなく、あたり前のことであるはずのものだ。だが、たとえばマイケル・サンデルの著書を紐解くまでもなく、世のなかにはじつにさまざまなものが、金さえあれば買えてしまうという事実がある。そして、そのなかには「人間」でさえも含まれている。人間の臓器も、優秀な人間の精子も、自分の代わりに妊娠し出産してくれる代理母も、そして人の命を奪うことでさえ、時と場所によっては商売の対象として売買されているのだ。

 経済活動がこのうえなく自由になっていけば、およそ人道や倫理といったものを容易に踏み越えて、ありとあらゆるものが金銭という単位で交換可能なものとなっていくのは、ある意味で必然ではある。だが、それを受け入れたときに、人間が人間であるための境界線はどうなってしまうのだろうか、という危惧が生まれてくる。なぜならそれは、人間をモノとして扱うこと、自分の一部を切り売りすることと同義であるからだ。自分の存在がどこかのスーパーの棚に、売り物として並んでいるという想像は、自分がかけがえのない存在であるという尊厳を著しく損ねるものだ。世のなかには、代替可能でないものがたしかにある――その認識は、私たち人間がまぎれもない人間であることを確認する、もっとも人間らしい行為へと結びつくものでもある。

 人間として生を受けた以上、人間としての人生をまっとうしたいという思いは、藤原ていの『流れる星は生きている』の書評でも触れた、人類共通の願いである。だが、世のなかにはそうした、私たちにとってはあたり前であるはずの願いですら、容易に叶えられないような状況にある人たちが大勢いる。今回紹介する本書『リバーサイド・チルドレン』は、そうしたラディカルな命題をミステリーというジャンルで表現することに成功した、稀有な作品であると言うことができる。

 スラム街で意味を持つのは、大人と子供という身分の違いではなく、稼げるか稼げないかだ。――(中略)――だから、僕らはお金にこだわる。お金は服であり、ご飯であり、寝床だ。生きるためには、お金が必要なのだ。
 けれど僕らにも、ときにはお金以上に大切なものがあるはずだ。

 本書の舞台となるのはカンボジアを流れる川のほとりであり、一人称の語り手をはじめとする数人の少年たちが、その川のほとりに粗末な小屋を建てて暮らしている。彼らはなんらかの理由で両親をもたないストリート・チルドレンであり、川をくだったところにある巨大なゴミ捨て場から金になりそうなものを漁ることで、かろうじて生活を維持している小さな集団でしかない。だが、あくまで語り手の主観によって繰り広げられる物語において、彼らの置かれた苛酷な境遇は、オブラートに包まれるがごとくぼんやりとしたものとなり、ある意味できわめて刹那的な、あるいはどこか幻想めいた雰囲気さえ漂っている。彼らにとって、固有名詞はほとんど意味をもたない。彼らのとらえる「世界」では、川はただの「川」であり、ゴミ捨て場は「山」、ゴミ漁りは「エモノを狩る」というふうに言い換えられ、たくみに現実から目を背けることができるような構造ができあがっている。

 もちろん、まともな知識もない未熟な子どもたちによるそうした「世界」が、きわめて脆弱な土台のうえに打ち立てられたものでしかなく、ほんの少しでもバランスが崩れれば、たやすく瓦解してしまうであろうことは、想像に難くない。なにより、頼るべき大人のいない、子どもだけの集団という存在は、どこか大人としての常識をもって手を差し伸べたくなるものだ。だが同時に、読者である私たちは本書を読み進めていくと、すぐにそんな子どもたちの儚い世界に好意的な気持ちを抱かずにはいられなくなる。そしてその一番の功績は、ヴェニイという名の少年の存在に拠るところが大きい。

 語り手の少年にかぎらず、その集団のすべての子どもたちにとって、ヴェニイは太陽のごとく輝ける存在であり、彼のそばにさえいれば、どんなに苛酷な現実や理不尽な出来事であっても、笑って跳ね飛ばしてくれそうな力強さをかもし出す少年として書かれている。ヴェニイは異国の町で途方にくれていた語り手を助け、自分の兄弟も同然の仲間として、今まで子どもたちを導いてきた。そこには何の打算もなく、ただそうしたいからそうした、としか言いようのないものがあるのだが、私たち大人にはもはや納得のいかないものとなっているそんなヴェニイの態度は、純粋な人間としてのつながりを強く感じさせるものであるからこそ美しい。私たち読者が惹かれるのは、まさにそんな部分だ。

 だが、ヴェニイたちを取り巻く現実の理不尽さは、けっして彼らを放っておいてはくれない。その予兆は、物語の当初から少しずつ表面化しつつあった。「エモノ」の減少、ヴェニイのような子どもたちを更生しようとするNGO団体の接触、彼らが「黒」と呼ぶ警官が「街」に頻出していること――しかし、なにより決定的な事件として起こってしまうのが、ヴェニイたちを事実上バラバラにしてしまうことになる、ある殺人事件である。

 アジアでもとくに貧しい国であるカンボジアでは、人の死はごくありふれたもののひとつでしかない。そしてヴェニイたちのようなストリート・チルドレンの死は、彼らを取り巻く現実世界においては、たんなる名無しの、厄介者の死でしかない。じじつ、彼を殺したのが「黒」であることは本人の口から語られているし、そのことを彼はもちろん、他の大人たちもとくに問題にさえしない。彼らにとっての人間の範疇に、ストリート・チルドレンであるヴェニイたちは含まれていないのだ。そして、その理不尽な現実を突きつけられてなお、なんの後ろ盾もない語り手にはどうすることもできない。

 だが、それでは当然のことながら物語りは成立しない。語り手であるミサキにとって、ヴェニイやその仲間はまぎれもなく自分と同じ人間であり、その死が他殺である以上、それはまぎれもない殺人事件であり、解決すべき事案なのだ。そしてここに、この物語がミステリーとして成立する要素が発生し、それが同時に事件の真相ともなっていく。人間が人間であるために――殺された名もなきストリート・チルドレンが、まぎれもないひとりの人間であると証明するためにこそ、ミサキは事件の真相を突き止めようと行動する。同じように大切な仲間を殺された少女ナクリーとともに。

「理論に則って組み立てたものは、整然としていて、きれいだ。だけど、僕らは、理屈だけで生きているわけじゃない」――(中略)――「僕らは機械や人形じゃない。人間なんだ」

 ミサキの夢のなかに出てくる雨の描写や、彼がまだ日本にいたころに観たという、ある巨人の話など、いろいろと象徴的なシーンの多い本書であるが、他ならぬミサキがなぜカンボジアの地でストリート・チルドレンとなったのかも含め、意想外な部分が意想外な伏線となっているところも非常に興味深い。物語の流れという意味では、本書はひとりの少年が理不尽な現実を直視したうえで、その現実といかに向き合い、乗り越えていくかという話となるのだが、そこには他ならぬ人間としての尊厳を回復するという、非常に深くて重いテーマが横たわっている。そしてそのテーマが、ミステリーというジャンルの位置づけとしてこのうえなくマッチしているという事実に、驚きを禁じえない。名もなきストリート・チルドレンとしてではなく、ともに笑ったり泣いたりするひとりの人間としての彼らの物語を、ぜひとも体験してもらいたい。(2013.12.29)

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