【集英社】
『ルール』

古処誠二著 



 私たちにとって言葉というのは、たんなるコミュニケーションの道具というわけではなく、私たちの生きるこの世界を秩序づけ、自分たちに理解できるものとして取り込んでいくための武器でもある。言葉を取得し、言葉によって物事を思考するようになった人間は、それゆえにこの世のあらゆる現象を言葉に置き換えようとする。わけのわからないものを、わけのわからないままに放置しておくことは、それだけで恐怖を引き起こす。恐怖を克服するために、私たちは世界に名前をつけていく。そうやって、人間は世界を自分たちなりに把握し、発展していったと言ってもいい。

 言葉に置き換えることのできないものは、私たちにとってはこの世に存在しないも同然のものだ。だが逆に、一度言葉にしてしまえば、私たちはけっしてその存在を無視することはできなくなる。ある特定の異性に対して感じる妙な心の高ぶりを「恋」と認識した瞬間、その人は相手に対して恋をしている自分を自覚する。ある衝動に駆られて犯罪行為に走った人間は、警察に動機を聞かれてはじめてそのときの気持ちを言葉にしようと自覚する。たとえ目に見えない小さなものであっても、名前をつけられることによってそれは実在することになる。言葉にすることによって、はじめてその存在が確定される世界に生きる私たちにとって、言葉というものがきわめて重要な要素であることは言うまでもないことであるが、私たち人間が完璧でないのと同じように、言葉もまた完璧なツールというわけではない。言葉はけっきょくのところ、人間側からとらえた世界の一側面でしかないという事実を、私たちは普段どこまで自覚しているだろうか。

 死人を食うべからず。
 有史以来、これほど救いようのない通達がなされた軍隊もない。

 太平洋戦争末期のフィリピン・ルソン島に駐屯し、圧倒的戦力を誇るアメリカ軍の反撃を前に、それでもなお前線を維持するために絶望的な戦いをつづける日本軍を描いた本書『ルール』は、たしかに戦争小説としてこのうえないリアリティーを維持している作品であることは間違いないが、本書の本質は戦争そのものというよりも、むしろ私たちが操る言葉に焦点をあてていると言ってもいい。じっさい、人と人との殺し合いであるという戦争の本質を描く部分はごく少なく、また戦闘行為におけるいかにもむごたらしいシーンについても、極力控えめな表現に押さえようとしているところがある。むしろ、日本軍の抵抗をそぐために、アメリカ軍がばら撒いた伝単――日本語で書かれた、この戦争の現状を説明するためのビラのエピソードのほうが、より印象に残るものがあるし、今後の物語の展開においても重要な意味を帯びてくる。たしかに、アメリカ軍の侵攻を食い止めているという意識が日本軍の軍としての機能を維持している唯一の生命線であるとすれば、アメリカ軍がルソン島を一気に飛び越えて、日本本土を連日爆撃しているという事実を伝えることは、その生命線を断ち切るに等しいという意味で、まさに言葉による攻撃と言えるものである。

 日本軍の兵士が、もはや兵士として機能していないという事実――アメリカ軍という敵ばかりでなく、自分たちが守っているはずのフィリピンの民さえも、ゲリラという形で自分たちに敵意をむきだしにしているという現実にくわえ、弾薬や装備はおろか、人を人として維持していくための食料さえもなく、いつ終わるともしれない、あるいは死をもって以外に終わることのないマラリアの高熱と、はてしない飢餓のなかにあって、それでも片方の耳の欠けた鳴神中尉は、敗残兵の寄せ集めにすぎない部隊を率いて任務の遂行を命じられる。山岳地帯を抜け、キレナという村落まで物資を輸送するという任務――ひとかけらの炭を舐め、カタツムリや自分の血を吸ったヒルを食い、ときには死体に湧いた蛆さえ白米に見えてくるような極限状態の描写が目立つ本書であるが、本書の本質が「言葉」というものにあるとするなら、そこに捕虜となったアメリカ軍人であるオースティンという人物が入り込んでくるという展開には、大きな意味がある。そこにあるのは、物資輸送という「任務」の表現がもつこのうえない虚無感だ。

 本書のなかにおいて、まだまともな思考能力を持つ日本兵であれば、日本がいずれ敗戦を迎えるということを、心のどこかで自覚している。そしてそれは、敵であるオースティンであればなおさらのことだ。彼は、日本兵の極限状態をまのあたりにしながら、にもかかわらず軍人としての「任務」――およそ、軍事的意味など無きに等しい任務をこなす様子をある種の驚異をもって知る。英語と日本語、お互いの言葉は通じない。だが、彼らはともに同じ人間であるというただその一点をもって、同じ体験を共有した者としての認識に到る。そしてその共通認識は、先程の「任務」という言葉がもつ虚しさと呼応するものでもある。

 言葉が通じない、言葉がまともな意味を持って機能していない、というひとつの絶望が、本書の中にはたしかに描かれている。同じ日本語を話す日本人でありながら、極度の飢餓によって人であることすら放棄してしまった敗残兵たち、人肉を食べるという禁忌を犯しながら、それでもなお人としての倫理を捨てきることのできない敗残兵たちの存在もまた、こうした言葉の無力さを読者に突きつける重要な要素だ。本書が描く戦争の悲惨さとは、飢えでも、戦争に負けることでも、ましてや犬死でも人食でもなく、ただひたすら言葉の無力さによるものである。そして、そんなふうに考えたとき、鳴神中尉が戦闘によって片方の耳を失ったという設定も、彼がまったく無意味な地獄に立たされていながら、それでもなお最後まで人間としての意志を貫くことができたという結果を考えたときに、けっして無意味なものではないことに気づく。

 耳の負傷ゆえに、周囲にいる人々の声が聞き取りにくい。しかし、そのことによって鳴神は、言葉というものがもつ欺瞞から遠ざかることができたのではないか。片耳が不自由になったぶん、彼は自身の心のうちに湧く声に拠って立つことができたのではないか。

 はじめに言葉ありき。
 聖書にはそう書かれてあるらしい。
 しかし、鳴神の耳に届く三種類の言葉は、言葉など大した問題ではないと教えていた。むしろ統一された言語は人を欺く。対象の姿を自在に欺瞞する。
――(中略)――そんな言葉を必要とする人間の集団は、糊塗の弊害に気づかない。

 本書のタイトルにもなっている『ルール』とは、人が守るべき規律を明文化したものである。だが逆に言えば、ルールを明文化した背景には、過去においてルールの明文化を必要とする事態が現実に起こったことを意味する。たとえば、電車のなかにある「優先席」という概念は、席を譲るべき弱者に対する思いやりが不足しているがゆえに生まれたものであるが、本来そうした思いやりは、人が人である以上あたり前のことであるはずだ。そんなあたり前のことを、あえて言葉にしてルールづけなければならないという欺瞞――文字どおり、言葉にすることで生まれたルールによって生かされ、ルールによって殺さることになった人々の姿を描いた本書の不条理を前に、はたして読者は何を思うことになるのだろうか。(2007.04.20)

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