【フレーベル館】
『ルチアさん』

高楼方子:作/出久根育:絵 



 ここではないどこか、いまではないいつか――ファンタジーのファンタジーたる要素といえば、まさにこの一文がすべてを物語っているわけだが、私たちが今生活している「ここ」「いま」が日常であるとすれば、「ここではないどこか」「いまではないいつか」とは非日常のことであり、そういう意味ではファンタジーの世界に対する憧れは、たとえばどこか遠い国へ旅行に出かけることへの憧れと似たものがある。旅行に出かけるという行為は、日常から非日常へとその人自身を移行させることでもあり、だからこそ、旅行の思い出というものは、その人にとって特別なものとして光り輝く可能性を秘めているのだ。

 ファンタジーの世界は、私たちにとってはけっして手に届くことのない、ありもしない虚構を描いたものであり、ふだん私たちが現実を生きていくのにたいして役に立つものではない。だが、そうであればなぜ私たちは、ときに無性に今自分がいる現実を離れ、「ここではないどこか」「いまではないいつか」に憧れを抱いたりするのだろう。遠い国を旅することの憧れは、すなわち非日常への憧れでもあると上述した。そして旅をしているあいだ、私たちは普段の自分ではない自分――非日常を思う存分楽しもうとしている特別な自分になっていることに気づく。それは、ファンタジーの世界への憧れにも共通するものである。

 本書のタイトルにもなっている『ルチアさん』とは、「たそがれ屋敷」と呼ばれる一軒家にお手伝いさんとしてやってきた女性のこと。「たそがれ屋敷」とは、広い庭に鬱蒼と茂る木々のせいで昼でもなお夕暮れ時のように薄暗いことからつけられた名称で、いつも憂鬱そうな奥さんと、ふたりの娘、そしてふたりのお手伝いさんが住んでいた。そんなお屋敷に、新しいお手伝いさんとして働くことになったたまごのような体格のルチアさんは、ふたりの娘――スゥとルゥルゥの目には、水色の光を放っているように見えた。この薄暗い屋敷のなかで、ほとんど外とのかかわりをもつことなく密やかに生きてきた女の子にだけ、ルチアさんの放つ水色の光が見えるというのは、ある意味象徴的である。

 スゥとルゥルゥにとっての世界とは、まだ「たそがれ屋敷」のなかで完結してしまう程度の、ごく小さなものでしかない。船の仕事のためにほとんど家にいない父親が、たまに帰ってきたときに聞かせてくれる遠い国のことはもちろん、ふたりのお手伝いさんが話してくれる村のことでさえ、姉妹にとってはまだ見ぬ異世界、言ってみればファンタジーの世界も同然である。

 スゥとルゥルゥにとって、このふたりが話してくれる村の話を聞くのは、楽しみのひとつでした。それは――(中略)――お父さまが聞かせてくれた、遠い国々のかすみの向こうのような話ともちがって、もう少しでつかめそうな、むずむずするような喜びをもたらしてくれるからでした。

 ルチアさんが放つ水色の光の正体は、いったい何なのか? 物語は、「たそがれ屋敷」の姉妹にしか見ることのできない光の秘密を中心に、スゥとルゥルゥ、そしてルチアさんの娘であるボビーをも巻き込んだ形で展開していくことになるが、じっさいのところ、本書のなかではっきりとした答えが――それこそミステリーにおける謎解きのような答えが用意されているわけではない。重要なのは、スゥとルゥルゥにとってルチアさんの光が、かつて父親が買ってきてくれた、遠い国のおみやげである水色の宝石とまったく同じ輝きをもっている、ということであり、その事実がふたりにとって、「かすみの向こうのよう」に実感のわかなかった遠い国々の世界が、ルチアさんというひとりの人間の形を与えられたことで、にわかに現実味のある身近なものとして、まさに「もう少しでつかめそうな」ものへと変化した、ということである。

 以前に読んだことのある同著者の『十一月の扉』もそうだったが、著者が描く非日常の世界は、ごく小さな範囲に限られた、ひっそりと息づいているものが多い。本書の場合、『十一月の扉』における「十一月荘」に該当するものが「ルチアさん」であり、それはファンタジー的な要素をもちながら、私たちの日常と非常に近いところに接しているものでもある。そしてこの身近なファンタジーとしての要素が、それまで小さな世界に収まって、そのことに何の疑問をもつこともなく生きてきた少女たちの視線を、そこから外に向けるための重要な役割をはたすことになる。

 ルチアさんという不思議と出会ったスゥとルゥルゥは、その水色の光ゆえに、彼女がどこか遠い国からやってきたに違いないと思いこむのだが、じっさいのルチアさんは、となり町に住んでいて、そこからどこにも行ったことのないおばさんにすぎなかった。ではなぜ、ルチアさんの放つ光は遠いどこかの国を思わせるのか。そして、過去にいろいろと大変な思いをし、また不幸なこともあったはずなのに、なぜルチアさんはいつも明るく弾んだ気持ちでいられるのか。その答えはぜひ本書を読んでたしかめてもらいたいところであるが、その存在がスゥやルゥルゥ、そして娘であるボビーに何かしらの変化を与えた――言ってみれば、彼女たちが外に目を向けるきっかけをつくることになったルチアさん自身は、はたしてほんとうに人間として幸せだったのだろうか、と本書を読み終えた私はふと思うのだ。

 だって、母がため息をついたり、愚痴をこぼしたり、人を批判したりするのを、一度も聞いたことがないのですから。そのかわり、なにかに執着したり、なにかを特別に愛するというようなこともないのでした。

 あれから時が過ぎて、何十年ぶりかにスゥとの再会をはたしたボビーは、彼女に渡した手紙のなかで自分の母親であるルチアさんのことをそんなふうに書いているが、彼女の水色の光の秘密は、たしかに彼女にとって自分自身をささえるゆるぎない支えではあったかもしれないが、その支えの本質――「ここ」にいながら、同時に「どこか」にもいる、という本質を考えたとき、同時にそれはルチアさんを、そして彼女の周囲にいる人をも限りなく孤独にしてしまうものではないか、と思わずにはいられないのだ。なぜなら、それはまぎれもない現実に目を向けて、両足でしっかりと地面を踏みしめるように生きていくことよりも、根無し草のように流されるがまま、どんな不幸も旅のなかの出来事であるかのように受け止めて生きていくことに他ならないからである。そう、それはいつも船に乗って遠くの国々を渡り歩き、それゆえに自身の家族のことを顧みることのなかったスゥやルゥルゥの父親と、本質のところで同じようなものではないか、とも思うのである。

 はたして、ルチアさんのような生き方が幸せなのか、あるいは成長したスゥの生き方が正しかったのか、スゥとは正反対の人生をおくることになったルゥルゥはどうなのか、答えの出ないことを考えつづけることになったボビーはどうなのか。本書のなかにそれらの答えが書かれているわけではないが、だからこそ本書を読んだ人たちは、自分の今の生活が本当に満たされたものであるのかどうか、あらためて立ち止まって考えるきっかけを与えてくれることになるだろう。そういう意味で、本書は児童書ではあるが、子どもよりもむしろ大人たちにこそ読んでもらいたい作品である。(2005.12.21)

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