【朝日新聞社】
『理由』

宮部みゆき著 
第120回直木賞受賞作 



 連日連夜、ニュース番組や新聞といったメディアを通じて報道される、日本じゅう、いや世界中で起こっているさまざまな事件――私たちは常にそのような情報に晒されて生活していると言ってもいいだろう。おかげで私たちは、ちょっとした珍騒動から、極めて悪質な殺人事件や国家間の紛争など、数多くの事件が発生しているということをあたり前のように認識している。
 何月何日何時ごろ、どこでどのような事件がおきたのか、どのような人が被害に遭い、今はどうなっているのか――もしその事件が解決しているのなら、加害者の名前や、警察に対してどのような供述をしているのか、といったことも分かるかもしれない。だが、メディアを通じてわかるのは、あくまで事件の概要と、その事件に関わった一部の人の名前くらいのものであり、例えばその人たちがどのような子供時代を過ごし、どのような考えを抱いて成長し、どのような人間関係を築き、そしてどのような因果に巻き込まれて今度の事件に関わることになったのか、ということを正確に知ることはほとんどない。あるいは非常に特異な事件の場合に、そのような人たちの生い立ちにスポットを当てた特集が組まれることもあるが、それらの事件やその関係者は、私たちが生きている現実とは無縁の――あくまでメディアのなかにのみ存在する虚構の世界の出来事、虚構の世界の登場人物でしかないのだ。逆に言えば、私たちはさまざまな事件のことを知りながら、それらのほとんどのことについて、およそ現実味をもったものとして扱っていない、ということにもなる。

 本書『理由』の時間的設定を言うなら、すべてが終わった後のことである。すなわち、ある非常に複雑な殺人事件が発生し、それからさまざまな紆余曲折を経て現在は容疑者も身柄を拘束され、事件の真相もすべてあきらかにされ、世間もその事件を過去のものとして片づけてしまえるほどの時間が経過した後に、ある匿名のインタビュアーが、その事件にいろいろな形でかかわった様々な人たちと接触し、インタビュー形式で当時の出来事について語らせる、という体裁で物語が進んでいくのである。

 日本文芸界最高のストーリーテラーとも言うべき著者が、なぜインタビューによる回想という、まるでノンフィクションかドキュメント番組のような体裁で本書の物語を書くことになったのか――まず考えられるのは、ひとりの登場人物を主人公に据えて事件を追わせるより、さまざまな立場の人間からひとつの事件を多面的にとらえさせるほうが、事件の真相をより正確に表現することができると判断したことが挙げられるだろう。

 東京都荒川区にそびえたつ超高層マンション「ヴァンダール千住北ニューシティ」、そのウエストタワー二〇二五号室で、一家四人が惨殺されるという大事件が本書の核となっているのだが、そこで殺されていた人物は、その部屋の持ち主であるはずの小糸家とはまったく無関係な人達であり、事件当時、小糸家の人々はその部屋に住んでいなかったばかりか、すでにそのマンションの所有者ですらなくなっていたこと、そして小糸家の代わりにこっそり入れ替わって住んでいた人々も、そもそも血のつながりのない赤の他人どおしであったことなどが徐々にわかってくる、という展開になっている。事件そのものはすでに解決しているが、もちろん著者は、読者にいきなり事件の全貌をあらわにするようなことはしない。あくまでインタビューが進むにつれて、少しずつ事件の真相と、その裏に隠されているさまざまな問題――現代日本の不動産流通の事情、裁判所による差し押さえ物件の競売制度、法律の網の目をかいくぐって活動する「占有屋」と呼ばれる人たちの問題、そしてなにより、現代の家族が直面しているさまざまな問題が明らかにされていく、という著者の綿密な物語構成は見事という他にないわけであるが、事件そのものに直接的にせよ間接的にせよかかわっている人が非常に多く、しかもその関係も複雑に入り組んでいるため、どんな脇役にもきちんとした人格と歴史を持たせて描写することを旨とする著者としては。その場その場で主役だった人たちに、その場面を直接語らせるべきだと判断したのだろう。著者がなにより生きた人間を描こうとしていること――それはインタビュアーに、ただ相手に事件のことを語らせるのではなく、その人がどのような服装をしていてどんな印象だったか、語るときのクセや語り口がどのような感じだったか、ということについてできるだけ説明しようとしているところを見てもわかる。そして、それこそが、本書のような形で物語を書いたもうひとつの理由ではないだろうか。

 小説、とくにミステリーの世界において、しばしば人が殺される。現実の世界においても、毎日のように世界のどこかで殺人事件がおき、人の命が奪われている。ひとりの人間が死ぬ――殺されるという事実が、いったいどういうことなのか、ということについて、著者はおそらく人一倍敏感なのだろう。だからこそ、宝井綾子が祖父の死を受け入れられずに荒れた生活をしていたというエピソードや、砂川里子の夫の失踪にいたるエピソードが、たんなるエピソード以上の重みをもって迫ってくるのである。

 殺された人間は、ただ「殺された」という結果だけを背負ってメディアに報道されるわけではない。殺された人間もまた、殺されるまでは私たちと同じように、確かに生きて活動していたのであり、それぞれ家族を持っており、家庭生活を営んでいたはずなのである。だが、愚かな私たち人間は、しばしばその重要な認識を忘れてしまうのである。

 人を人として存在させているのは「過去」なのだと、康隆は気づいた。この「過去」は経歴や生活歴なんて表層的なものじゃない。「血」の流れだ。あなたはどこで生まれ誰に育てられたのか。それが過去であり、それが人間を二次元から三次元にする。そこで初めて「存在」するのだ。

 インタビュー形式というのは、相手との間にインタビュアーが入り込むぶん、読者は無闇にある特定の登場人物に感情移入することなく、少し離れてその登場人物を眺めることができる、という特徴を持つ。ゆえに、ともすると「生きた人間を描く」こととは反比例することにもなりかねないのだが、本書では事件の過程というよりも、なぜそのような事件が起きたのか、なぜ小糸家の人々はマンションを離れなければならなかったのか、そしてなぜ赤の他人どおしが家族を装わなければならなかったのか――そうした「理由」にこだわることで、事件そのものと、事件の関係者を立体的に立ち上がらせることに成功しているのである。宮部ワールドの新しい世界を、ぜひ味わってほしいものである。(2000.02.26)

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