【角川書店】
『RIKO――女神の永遠――』

柴田よしき著 
第15回横溝正史賞受賞作 



 社会正義を乱す犯罪者を取り締まるために、銃の所持など多くの特権を持つことを許された警察組織は、その特権性ゆえに、内部構造もまた鉄の規律をもって築かれるべきであることは言うまでもない。だが、たとえば徹底した取材と調査のもとに濃密なディテールをもつ世界を描いていく、高村薫の『マークスの山』などに出てくる警察組織を見るかぎり、厳格なのは、どちらの身分が上であるのか、という階級制度と、上の命令には絶対服従という上意下達の精神、そして自分たちの管轄に対する縄張り意識ばかりであり、警察という組織の規律の厳格さ、というのとはちょっと違うように思えるのは、私だけであろうか。

 身分の上下を実感させるのに必要なのは、つまるところ権力の有無だ。これは何も警察に限ったことではなく、どんな組織においても権力をもつ者が強い、というのは絶対の真理でもある。だが、こと警察などのように組織自体がひとつの権力機構として成り立っている場合において、それは組織全体の円滑な運営に貢献するかもしれないが、同時に権力による人の支配につながりかねない危険性と、常に隣り合わせでもあることを意味する。
 一時期、警察による不祥事が大きくメディアで取り上げられていたが、けっきょくのところ、私たち人間は今もなお、原始時代と変わらない「弱肉強食」の世界のただなかで生きている、ということなのかもしれない。

 本書『RIKO――女神の永遠――』の冒頭は、いきなり警視庁と新宿署との微妙なつばぜり合いからはじまる。新宿界隈のポルノビデオ販売店から押収した一本の裏ビデオ――ひとりの若い男の体を数人の男が残虐にもてあそび、次々と輪姦していくシーンを映したこのビデオの背後に、なんらかの犯罪の匂いを嗅ぎ取った刑事課の村上緑子警部補と、防犯課の鮎川慎二巡査部長は、半年を費やしてそのビデオの被害者が複数人にのぼること、そのうちの何人かがすでに死亡していることをつきとめるのだが、いよいよ本格的な殺人事件として捜査に乗り出そうとした矢先に、警視庁から合同捜査の依頼が舞い込んできた、という流れである。

 そもそも都内最大級の所轄署であり、また犯罪多発管轄区でもある新宿署は、中央への対抗意識が強い。後からのこのこやってきて手柄で横取りされるのはまっぴら御免、という考えが新宿署の内部にあるのは確かだが、それ以上に緑子自身の個人的な事情はさらに複雑である。緑子はもともと警視庁の優秀な刑事であったのだが、上司と不倫して刃傷沙汰を起こしたのが原因で、新宿署に厄介払い(書類上では栄転)された、という過去を持っているからだ。

 はたして、この裏ビデオの背後に潜む犯罪とは何なのか、なぜ男ばかりが被害者として選ばれたのか、そしてすべての真相はどのような形を成しているのか――ミステリーとしての要素もさることながら、本書の一番の読みどころが、村上緑子という女刑事の生き方そのものにあることは間違いあるまい。なぜなら、緑子がまぎれもなく、男性優位主義の色濃く残る巨大な警察組織の犠牲者でありながら、その一方で自分が女であること、警察組織内部のみならず、純粋な力という点でも、男に比べて弱い立場にある女であることをまっすぐに見据えて生きているからだ。

 宮部みゆきの『クロスファイア』に登場する石津ちか子や、乃南アサの『凍える牙』に登場する音道貴子など、女刑事が登場するミステリー、というのは、今日においてはそれほど珍しい存在ではない。それどころか、警察の世界に限らず、法曹や医学の世界でも、また純粋な格闘の世界においてさえ、女性たちは男性と対等なひとりの人間として、あるいは男性以上に優れた業績を残す存在として活躍する場面が、小説でも多く書かれているが、彼女たちは基本的に職能集団のひとりとしての立場を貫く、というスタンスをもっており、本人がまぎれもなく女でありながら、その「女」の部分を意識して表現しないようにしている、あるいは男性からのアプローチがあって、はじめて男女の性差について考える、というパターンがほとんどであったように思う。

 だが、本書に登場する村上緑子という女性については、刑事という職業に就いている者である以前に、自分が「女」であると自己主張している部分が圧倒的に多い。それは、かつて出世街道を順調に進んできた警視庁勤め時代に起こした不倫騒動が、彼女の実力をも「女を使った」ことにされてしまったことや、彼女の出世をやっかむ高須義久らの卑怯な奸計によって体も心も貶められてしまった、という、彼女の抱える過去ばかりが原因ではない。それだけであれば、よくあるジェンダーの問題に燃え、男性優位社会に敢然と立ち向かう女戦士、というイメージがあっても、けっして「女」というイメージが出てくることはないはずである。緑子は、女として当然持っている性愛や、男性に対する愛情をけっして否定しない。むしろ喜んでそれを受け入れることで、男性と同等な立場に立つことを目指している、と言ってもいいだろう。

 仕事上のパートナーである鮎川慎二と肉体関係を結び、また交通課の婦人警官である陶山麻里と同性愛の関係に溺れる緑子――過去の事実として、彼女は間違いなく犠牲者であるはずなのに、本書の中で刑事のひとりとして、事件の真相を追いつづける緑子の姿に重なるのは、麻里の言葉を借りるなら「娼婦」である。だが、過去の歴史において、どんなに巨大な権力者も、娼婦のもつ「女」という武器にさんざん翻弄されたことを考えると、あるいは娼婦であることは、女性が男性に対して優位に立つことができる唯一の道なのかもしれない、と考えてしまうのは、本書の著者が男だからだろうか。それともこの書評の書き手が男だからだろうか。

 あたしにだって、「欲しい」と思う権利はあるはずよ。
 あたしは「欲しい」ものを手に入れに行くのだから、誰にも止めることは出来ない。
 男が「欲しい」と思う時だけに与える人生など、もうまっぴらだった。

 かつて、腕力という「力」で緑子を屈服させた高須義久に復讐するために、緑子は「娼婦」という力を使った。同じように巨大な権力にただ弄ばれることを拒否した者たちが復讐を企てたとき、どのような力を使うのか――本書を読み終えた読者は、緑子自身の背負っている過去と、彼女が追う事件の真相が、じつは同じベクトルを向いたものであることを知ることになるだろう。そして、そのときに彼女がとった行動、そして本書のサブタイトルである「女神の永遠」の意味を、あらためて考えることになるに違いない。(2002.02.25)

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