【幻冬舎】
『リアル鬼ごっこ』

山田悠介著 

背景色設定:

 物質的にはただの炭素の塊でしかないダイヤモンドがなぜ「宝石」としてもてはやされ、高価な値段で取引されているのか、という命題について考えたとき、そこにふたつの単純な条件が作用していることに気がつくはずである。すなわち、「数が少ない」という条件と、「誰もが欲しがる」という条件である。逆に言えば、このふたつの条件を満たすものであれば、その対象となるものは希少価値がある、ということになる。

 さて、この条件を人間にあてはめてみると、この地球上に50億以上の人間が生息している、ということから、少なくとも「数が少ない」という条件については対象外とならざるを得ない。だが、これはあくまで人間をひとつの種としてとらえたときの判断で、個々の人間がそれぞれもっている多様性に目を向けたとき、たとえば頭の良さ、容姿の美しさ、身体能力の差といったさまざまな条件が成立し、それによってじつに複雑な価値判断が生じることになる。

 価値判断の多様化は、「個性」というものを際立たせる大きな要素のひとつである。たとえば、私たちがこの世で生きているときに「人間という種は地球上に50億もいるから、自分はまったく価値がないのだ」と考える人は滅多にいない。私たちはあくまで、自分には何があるかないか、あるいは自分には何ができるかできないか、という自身の自我を中心にしたものの考え方をする。SMAPの歌ではないが、人間として生まれた以上、私たちはその時点ですでに「唯一無二の存在」なのだ。ゆえに、私たちが自分の「個性」に対する価値を高めたいと考えたとき、希少価値を決定づけるふたつの条件のうち、「数が少ない」という条件はほとんど意味がない。「誰もが欲しがる」もの――その「欲しがる」ものの基準は人によってさまざまではあるが――を、いかに多く身につけているかによって、私たちは自分や相手の価値観を判断するのである。

 さて、ここに『リアル鬼ごっこ』という作品がある。西暦3000年、人口1億人、どこか日本を思わせる架空の超大国を舞台に、「捕まったら死」という過酷なゲーム「リアル鬼ごっこ」の発端とその顛末を描いた内容であるが、名字が「佐藤」という、ただそれだけの理由でこのゲームに強制的に参加させられることになった大学生、佐藤翼が、その自慢の俊足を武器にいかにこの逃げ場のない絶望的な状況を生き延びて、そしてこのおそろしく非道でおそろしくくだらないゲームを思いついた王様に一矢報いることができるか、という点を本書の主体としたときにどうしても見えてしまう文法上、表現上、物語構成上のさまざまな稚拙さにはとりあえず目をつむるとして、私がひとつだけ気になったのは、「リアル鬼ごっこ」という死のゲームがはじめられることになった、そもそもの原因についてである。

 本書の舞台となる国の王様は、「佐藤」という名字をもっている。そしてその国における「佐藤」姓は、約500万人にものぼるという。全国民のおよそ5%が「佐藤」であるという状況にどうしても我慢できなくなった王様が、本人が王の「威厳を損なわずして、より効率的に佐藤を減らす方法」だと信じて疑わないやり方として思いついたゲーム――それがすべての「佐藤」姓の国民をプレイヤーに、100万人の兵士を鬼とした「リアル鬼ごっこ」のおおまかな内容であるが、そもそも自分以外の「佐藤」はみんな抹殺しようという王様の意図がどういうものであるのかを考えたとき、この書評の冒頭で挙げた、ものの希少価値を高めるふたつの条件のうちのひとつ、「数が少ない」という条件が頭に浮かんだ。

 王様の思考は、「佐藤という名字は自分だけが許される」というものである。それは言い換えれば、「佐藤」という名字が自分以外の大勢の人々に共有されてしまっていることから起こる希少価値の低下が、彼には我慢ならなかったということでもある。それは、王様の人間的価値観が単純に「佐藤」という名字と直結してしまっていることを意味する。だが、前述したように人間という存在は、ただそれだけで「唯一無二」のものであるはずなのだ。

 本書を読み進めていったとき、私たちはえてして主人公である佐藤翼という人物、そしてより大きな枠としてある「リアル鬼ごっこ」が作り出した不条理なルールに翻弄される佐藤姓の人間の姿に目を奪われがちであるが、じっさいに対立しているのは佐藤翼と王様のふたりであり、それは同時に、自分の確固とした個性を確立し、相手の個性もまた認めることのできる真に人間らしい生き方と、自分という個性を「唯一無二」のものととらえることができず、それゆえに自分以外の人間を自分と同等ではなく、自分より下の存在、つまり自分だけが特別だと思い込まざるをえないどうしようもない人間の生き方という、一種の主義主張の対立でもある。ゆえに、佐藤翼が兄妹愛や友情といった人間ドラマを展開し、王様が外道であればあるほど、この対立構造はますますわかりやすい形となって読者の前に立ち現われてくることになる。そしてこのわかりやすさと展開のスピーディーさこそが、本書の特長でもある。

 そう、本書はたとえるなら、何かひとつのメッセージを伝えるために書かれた寓話のような位置づけにあり、そういう意味では本書におけるリアリティを取り上げるのはほとんど意味のない行為である。高見広春の『バトル・ロワイアル』のようなものとは、根本的に性質の異なる作品なのだ。

 その希少価値を高めるために、たとえば豊作になりすぎた作物をあえて潰してしまう、といった話をよく聞くが、これと同じような発想を人間に対して、しかも自分という「個人」の価値を相対的に高めるために実行することができる――もちろん、本書は間違いなくフィクションであるが、たとえばサリン事件や連続児童殺傷事件といった出来事がまぎれもない現実の事件としておこっているのを知るかぎり、私たちが常識だと思ってきたものがまったく通用しない、それこそ本書の王様のような人物は、必ずしもフィクションだと片づけるわけにはいかないように思えて仕方がない。もし、本書のタイトルが冠する「リアル」がたしかに指しているものがあるとすれば、その一点に対してのみではないだろうか。(2005.04.25)

ホームへ