【講談社】
『レヴォリューションNo.3』

金城一紀著 



 人はいつから自分のことばかり考えるようになったのだろう。人はいつから、何か得をしたいと思い、打算や効率といったものを優先して行動するようになったのだろう。そして人はいつから、他人の純粋な善意に疑いの目を向け、信用するということの意味を忘れ、結果として誰かを傷つけるようになったのだろう。

 この世はけっして自由でもなければ平等でもない。どこかで得をする人がすれば、どこかで損をする人もいるし、とくに何も悪いことをしていないはずなのに、ひどく理不尽な目に遭う人もいる。生まれついた体つきや性質、育った環境は人それぞれに異なっていて、それはごく当然のことにすぎないのに、あるひとつの価値判断で人間の優劣が決定してしまうような世の中にため息をつき、政治が悪い、社会が悪い、官僚が悪いと愚痴をこぼすのは簡単だ。だが、それはけっきょくのところ、自分以外の何かに責任転嫁をして、そのことに安心していたいという個人的な甘えにすぎないのではないか、と考える人は、はたしてどのくらいいるだろうか。

 小さい頃、誰もが一度は「大人の都合」で約束を破ったりする大人の姿を目にし、その屁理屈や自分勝手なものの言い方に憤慨し、自分はけっしてこんな大人にだけはなりたくない、と思ったりするものだが、ふと気がついてみると、周囲のさまざまなことに迎合し、できるだけ波風を立てないように生きている、かつて自分が嫌っていたはずの大人になっている自分の姿がある。もし、自分もそうかもしれない、と思っていらっしゃる方がいるのであれば、ぜひ本書『レヴォリューションNo.3』を読んでみてほしい。

 ある記事の見出しは、すべての在日外国人が犯罪者であると決めつけていた。例えば、将来ボクが勤め人になって、こんな吊り広告ばかりの電車に何年も何年も乗り続けたら、どうなるだろう? 気がついたら世の中を斜めに見るようになって――(中略)――そのせいでいつも愚痴ばかり言っているつまらない人間になるだろうか? そんなのいやだ。

『異教徒たちの踊り』より

 本書は表題作のほかに二つの短編を収めた作品集であるが、いずれの作品にも「ザ・ゾンビーズ」と呼ばれる高校生たちの集団のことが書かれている。東京都新宿区――有名進学校や大学付属高校、あるいはお嬢様しか通わないような女子高といった、ハイレベルな高校が建ちならぶなか、語り手である南方が通っている高校は、「偏差値が脳死と判定されてしまう血圧値ぐらいしかない」生徒たちがたむろしている典型的なオチコボレ男子校。そんな彼らが「ザ・ゾンビーズ」なるグループを結成したのは、彼らがまだ一年坊主だったころに、生物の先生である「ドクター・モロー」こと米倉の「君たち、世界を変えてみたくはないか?」という言葉に触発されてのことだったが、なにしろ難しいことはよくわからない彼らがとりあえず考えたのは、つまり「勉強の得意な女をどうにかしてモノにしよう」ということ。それ以来、毎年秋になると、近所にある聖和女学院の学園祭に潜入しようと彼らはさまざまな作戦を打ち立てては、それを実行に移すべく奮闘するのである。

 表題作『レヴォリューションNo.3』では、南方たちにとって最後のチャンスとなる三度目の聖和女学院の学園祭潜入作戦の様子が描かれている。「世界を変える」ということが、いつのまにか女をゲットすることに結びついてしまうという思考の流れもおかしければ、女子高の学園祭に侵入しようと停学覚悟で乗り込んでいく「ザ・ゾンビーズ」の面々も、いかにもバカバカしくて笑えるものがあるのだが、そんな、いかにもどうしようもない事柄にはてしなきエネルギーを費やしていく彼らを見ていて思うのは、彼らはけっして現状に満足していないし、また自分たちのもって生まれた運命にうちひしがれてもいない、ということである。そして、その方法はどうあれ、自分たちなりに行動を起こしているという部分で、非常にすがすがしいものを感じさせるものがある。

 男なのにありあまるほどの色気とミステリアスな容貌をもち、またその博識を武器に、構内の生徒を相手に有料で「相談所」を開設しているアギー、クールな武闘派で、かつてヤクザからもスカウトされたという経歴をもつ舜臣、「史上最弱のヒキを持つ男」と言われるほど、とにかく運のない山下など、いずれもひとクセもふたクセもある人物ばかりが登場し、何かの目的に向かって突き進んでいく、という点では、石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』に出てくる武闘派ストリートキッズ「Gボーイズ」を髣髴とさせるものがあるが、本書の「ザ・ゾンビーズ」は彼らほどストイックでも、また効率的に動けるチームなわけでもない。「ザ・ゾンビーズ」のメンバーの大きな特長、それは、とにかく底抜けに明るく、そして楽観的だということである。それも、ただ明るいだけでなく、それぞれがけっして軽くはない問題――たとえば、それは自分が在日朝鮮人であったり、外国人とのハーフだったりすることから生じる差別の問題や、あるいはややこしい事情をかかえている家庭の問題だったりと、当人たちにはどうすることもできないたぐいのものだったりするのだが、にもかかわらず、彼らはじつによく笑い、バカ騒ぎをくり返す。まるで、この世のすべての不条理をはじき返そうとするかのように。

 僕たちは何度も敗北をなめることになるだろう。でも、それが嫌なら、こうして走り続ければいい。簡単なことだ。奴らのシステムから抜け出せばいい。小学校一年生の徒競走みたいに走り続ければいい。

『ラン、ボーイズ、ラン』より

 そして、本書を語るのにけっして忘れてならないのが、メンバーのリーダーである板良敷ヒロシである。彼は『レヴォリューションNo.3』ではすでに入院しなければならないほどの病におかされ、『ラン、ボーイズ、ラン』ではすでにこの世にいなくなっているキャラクターであるが、にもかかわらず、本書は何よりヒロシのための物語といっていいほどの重要性をもっている。なぜなら、「ザ・ゾンビーズ」は本書のなかで、いつも彼のために行動をおこしている一面が強いからだ。そしてそこにあるのは、仲間である、という理由だけで無条件に相手を信じ、また仲間の失敗や過ちを許すことができるという、底抜けのやさしさでもある。それは、どれだけこの世界で大成しても、どれだけ金を稼いでもけっして得ることのできない、まさにダイヤモンドの輝きをもつものなのだ。

 世の中が不公平だと思うのなら、自分たちの手でその不公平がなくなるような世界をつくってしまえばいい。自分はあくまで自分であって、わざわざ自分に不利な土俵で優劣を争う必要もないし、そんな土俵にしがみついている理由もない。どんな人生の重荷を背負っていても、迷うこともなく軽やかに走り続けることのできる若者たちの無謀で、だからこそ小気味のいい青春の姿が、たしかに本書になかには封じ込められている。(2005.09.11)

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