【新潮社】
『リセット』

北村薫著 



 時の流れは残酷だと、ときに人は口にすることがある。形あるものがいつしか崩れ去り、若く元気だった肉体がやがて衰えていくのは、そこに時間の経過があるからであり、その時間はただひとつの例外もなく、万物の上を平等に流れていくものだということを、私たちは知っている。そして、その時の流れは誰にも止めることはできない。少なくとも、私たちは時間をそういうものだと考えている。だが、それは本当なのだろうか。

 ところで私たち人間が時間という概念を意識しはじめたのは、いつの頃からだろう。たとえば原始時代、太陽が東から昇って西へと沈むという変化に「1日」という時の流れを定めたのは、それが繰り返しという要素をもっているからだ。同じように「1年」も、四季の移り変わりがある周期で繰り返されることを知っているからこそ付けられた時間の単位である。獅子座流星群が三十数年に一度の出来事であり、ハレー彗星が76年ごとに地球に接近することを発見したように、私たちにとって時間とは、じつはこうした繰り返しの積み重ねによって、はじめて意識することができる概念だと言うことができる。

 川の流れはある一点だけを見ていたとき、一方から他方へと流れ去っていくだけのものでしかないが、全体のサイクルという視点でとらえたとき、じつは流れ去った水は水蒸気となり、ふたたび川上のほうへと巡っていくものであることを知ることになる。もし、時の流れもまた同じように循環していくものだととらえるなら、私たち人間がこの世に生を受け、そして死んでいくという一方的な流れもまた、どこか私たちの理解をこえるところで連綿とつづく繰り返しの輪の、ほんの一部分にすぎないのではないか、と考えても、けっして不思議ではないはずである。

 幾度も星は流れ、そして時はめぐる。地上では詩が生まれ、歌が作られる。人々は、絶えることなく、それぞれの物語を、各々の言葉で語り続ける。

 本書『リセット』は、「時と人」と題される三部作の最後を飾る作品であるが、これまでの2作が、時間が突然未来や過去へと跳躍してしまうといった、イレギュラーな時間のねじれ現象に主人公が巻きこまれてしまう、といったものであったのに対し、本書はごくまっとうな時の流れに身を置く、ふたりの男女の物語となっている。

 第一部の舞台となるのは、太平洋戦争に突入する直前の日本。神戸の街で暮らす水原真澄は、やさしい両親の庇護のもと、何の不自由もない学校生活を送っていた。親友である田所八千代の家にお呼ばれされたとき、彼女の従兄弟にあたる結城修一と出会い、お互いに惹かれあうものを感じるが、時代はやがて戦争ムード一色に染まり、日本全体が徐々におかしな方向へと突き進んでいくように、ふたりの運命も少しずつ歯車が狂いはじめていく。そしてある日、学徒動員で真澄が働いていた兵器工場も爆撃を受けることになる。空襲警報が鳴り響くなか、彼女はその兵器工場へと向かう修一の姿を目にしていた……。

 第二部では、時代は一気に現代までくだることになるが、入院することになったある父親が、ラジカセに自身の過去を語るという形式を考えると、じっさいは戦後十数年が経った東京が舞台であると言っていいだろう。そのとき、小学六年生だった村上和彦は、ちょっとした偶然が重なって、小学生に無料で本を貸している女性と知り合うことになる。おそらく三十代だろうと思われるその女性は水原真澄といい、彼にとっては生涯忘れられない不思議な出来事を引き起こすことになった女性でもあったのだ……。

 戦前、戦中、そして戦後という時代を、そこに生きる人たちの何気ない生活を中心に、さまざまな小物や事件、ブームといったものを織りまぜつつ、鮮やかに描き出している本書に多くの読者が感じとるのは、時の流れそのものである。確実に過ぎ去っていく時間――私たちにとって本書の中の世界は、もう取り戻すことのできない過去の思い出だ。だが、たとえば同窓会で昔の学友と会ったり、小さい頃大切にしていた物を思いがけず見つけたりしたことがきっかけとなって、今までずっと忘れていた過去をふと思い出したりすることがある。もちろん、今の自分と過去の自分とは違う。そして人は、とくに若い人たちは、今を生きることに懸命だ。だから、不意打ちのように過去の自分と対面するというのは、今との時間的距離が遠く離れていればいるほど、まるで赤の他人と対面するかのような、なにかもどかしいものがあるのもたしかだろう。

 辛いこと、哀しいことを忘れられるから、人間は生きていける。水に流す――というように、心の刺も時に流せるんだ。今の自分を消すから、次の自分が生まれる。そういうものだ。
 でも、その時はふっと《消えてしまう小学五年の自分》が愛しくなったんだ。

 本書に登場したふたりの男女におこった、時間にかかわる不思議な出来事――それはたしかに不思議なことではあるのだが、『スキップ』や『ターン』を読んだときほどの奇抜さを感じはしない。それは言ってしまえば、忘れていた過去の自分を思い出したりすることの延長にあるものだ、という認識が、著者にあるからではないだろうか。そしてそれこそが、著者の信じる時間の本質ではないのだろうか。

 物語のなかで、真澄は修一の死を悟った。だが、修一の肉体はたしかに消滅したが、修一とのささやかな思い出という形で、彼の一部は真澄の内で生き続けた。そして、それがひとつの奇跡を生んだ。そう考えたとき、過去の自分が何を思い、どのような考えを持っていたのかを振りかえるという行為は、けっして無駄なことではないと言うことができるに違いない。

 私たちはいずれ死を迎える。だが、死という事象がすべての終わりを意味するのではなく、肉体が滅んでもなお続いていくものがたしかにある――こんなふうに書いてしまうと、いかにもありがちな言葉にしかならないのだが、そのありがちな言葉に万感の思いをこめて綴られた物語が、本書のなかにはある。(2003.11.14)

ホームへ