【金の星社】
『レネット』
−金色の林檎−

名木田恵子著 



 無知は罪、という言葉があるが、だからといって、その日その日を懸命に生きている人の命をもてあそんでいいという道理はない。その言葉はたしかに真実ではあるかもしれないが、であるなら真実をつかんでいる人間は、そのつかんでいる真実をきちんとみんなの前に提示する義務がある、という前提が成立してこそのものでもある。そういう意味では、「無知は罪」という言葉はどこか傲慢な響きをともなうものでもある。どうあがいても知りようのない事柄を、あたかも知っていることを前提とするようなその物言いは、物事を安全なところから見下ろすような視点しか感じられないからである。

 だが同時に、物事の真実というのは得てしてその全容をつかむのが容易なことではない、ということも言える。そして時と場合によって、真実を伝えることがかならずしも最善の策であるとはかぎらない、という事実も私たちは承知している。真実を知るというのは、ときに大きな痛みをともなうこともあるし、何より真実を正しく人々に伝えるのは、その全容をつかむこと以上に難しい。とくに、まだ年端もいかない、まだまだ大人たちの庇護を必要とする子どもたちを相手にする場合であれば、なおのことだ。

 本書『レネット−金色の林檎−』は、端的に言ってしまえばある少女の恋物語、ということになるだろう。だが、少女――海歌(みか)がその当時の心理に「恋」というひとつの真実をあてはめるのは、ずっと後のことになる。当時十一歳だった海歌の家族は深刻な問題をかかえていて、自身の心を見つめ、整理するだけの余裕をもっていなかった。ただひとつだけはっきりしていたのは、ベラルーシから一ヶ月の期限付きで海歌の家にホームステイしてきたセリョージャが、海歌を常にひとりの対等な人間として見つめていたということだけだった。

 ミカーチャ!――
 わたしを呼ぶセリョージャの声を何度聞いただろう。
 はずむように、やさしくささやくように、そして、哀しみを秘めた声で。
 (中略)
 セリョージに呼びかけられると、わたしは“心のきれいな子”になった気がした。
 たとえ、瞬間でも“わたし”ではないやさしい“ミカーチャ”という女の子に。

 海歌の家族がかかえていた問題――それは、海歌の兄に関することだった。ひとつ年上だった海飛(かいと)は、海歌にとっても自慢の兄であったが、登った木からの転落事故であっけなく命を落としてしまった。息子を失った悲しみのはけ口を夫にぶつける母、その非難を黙って受け入れる父、海歌の家族は死んだ兄がもたらす悲しみからなかなか逃れることができず、少しずつ壊れていった。それから一年が経って、父がセリョージャのホームステイの話を持ち込んでくる。

 セリョージャの住んでいた村は、1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故で多くの放射能を浴び、汚染地区として廃棄せざるを得なくなっていた。原発で働いていたセリョージャの父も母も、放射能がもたらすガンですでに亡くなっていて、セリョージャ自身も放射能に苦しめられている。チェルノブイリで被爆した子どもたちを、北海道の自然のなかで保養させ、少しでも抵抗力をつけさせようという「チェルノブイリ・虹の会」の活動を続けている父の友人を通じてもちこまれたホームステイの話に、兄の死以来の活気を見せ始める父母――それは、海歌の心を暗くざわめかせるイベントでもあった。

 いつまでも兄の死をひきずっている家族、壊れていく絆、そんなときに、まるで兄の代わりであるかのように入り込んできたセリョージャ――彼のホームステイの背景には同情してあまりある深刻な事情があることはわかっていながら、父も母も自分の存在をないがしろにしていると感じずにはいられない海歌もまた、複雑な心境をかかえている。物語は、そんな波乱づくめの予兆とともにセリョージャとの生活に突入していくが、自分と家族とのつながりについてどう距離を置いていいのかわからずにいる海歌にとって、セリョージャという存在が、それまでとはまったく違った視点を投げかけるものとして重要な意味をもつことになる。彼には、海歌の家庭の事情はわからない。それゆえに彼の海歌をとらえる視点が、純粋に海歌という人間そのものをとらえているという事実となってひとつの救いとなったことは想像に難くない。だからこそ、「ミカーチャ」というセリョージャの呼びかけが、彼女にとって特別な響きをもつことにもなる。

 本書がチェルノブイリ原発事故を題材として取り入れることで、事故から二十年が経ち、事故の記憶も被曝した人たちのことも忘れかけている人たちに、あらためてその認識をあらたにする、という意味を物語のなかに含んでいることを否定はしない。だが、本書がそれよりも重要なものとして、壊れたものの再生というテーマを掲げていることもたしかだ。原発事故がもたらす放射能が人間の体にもたらす破壊は深刻なものであるが、海歌の家庭がかかえている家族の絆の崩壊もまた、同じように深刻なものとしてとりあげようとしている。一度壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。だが本当にそうなのだろうか? 同じ形として元に戻ることはないが、また違った形で再生していくのではないか。そしてそれは、まったく救いとはならないものなのか。海歌の家族が、そしてセリョージャ自身が年月を経てたどり着いたひとつの結末は、その答えを何より雄弁に物語っている。

 本書のタイトルとなっている「レネット」というのは、セリョージャの故郷に生えていた林檎のこと。彼の村の林檎の木は、村とともにすべて埋められてしまったが、彼が大切にもっていたその林檎の種は、そのまま再生の象徴としても物語のなかで息づいている。バラバラになってしまった家族のこと、そして再び放射能にあふれる故郷に戻っていったセリョージャのこと――本書が彼らにどのようにな結末を用意したのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2007.09.23)

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