【講談社】
『冷蔵庫より愛をこめて』

阿刀田高著 



 世の中の価値観が多様化し、物事のサイクルが、人々の意思とは無関係にどんどん短くなっていく現代であるが、たとえば「うまい話にはウラがある」とか「タダより高いものはない」といった教訓的言葉というのは、昔も今も変わらない効力を発揮していると言うことができるだろう。なぜなら、人間の欲望に対する意志の弱さというのは、人間が人間であるかぎり、誰もが多かれ少なかれ持っている要素のひとつであり、それはけっきょくのところ、人間というのは誰でも「自分だけが特別」だと信じていたい生き物だということを指し示すことになるからだ。

 自分だけが特別――考えてみればずいぶん傲慢な意識であるが、これまでの人間の歴史を振り返ってみたとき、この地球という自然に対してずいぶん傲慢な行為をとりつづけてきたのが人間である。自然からそのしっぺ返しを何度もくらいながらも、いまだその意識はあまり変わっていないようにも思えるが、それはともかくとして、意識というやっかいなものに目覚めた人間は、常におのれの主観のみで世界をとらえることを宿命づけられた生き物でもある。ときにその自意識は過剰になり、客観的な――あまりにも明白な事実をもねじまげてしまうことがあるのだが、あるいは人は、そうして事実をねじまげ、自分たちが一個の生物である以前に人間である、という「意識」を持ちつづけることによって、なんとかこの世を生きているのかもしれない、とふと考えたりする。

 本書『冷蔵庫より愛をこめて』は、いわゆるブラック・ユーモアに溢れる短篇を収録した作品集であって、とくに人生の教訓について触れているお堅い内容ではない。ただ、本書はふと読者に思い出させるのだ。自分は人間という「特別な存在」である以前に、ひとつの生物にすぎず、この広大な自然の織り成す美しい循環の、構成要素のひとつでしかない、という事実を。そしてその認識は、決まって読み手を居心地悪くさせる。だが、私も読み終えて感じたこの居心地の悪さは、けっして本書を「面白くない」本として貶めるものではない。そもそもブラック・ユーモアの真髄が、読み手に可笑しさと同時に不気味さをも引き起こすことにある以上、私を居心地悪くさせた本書の試みは大成功だったと言うことができるだろう。

 本書に登場する人たちは、いずれもごくごく平凡な、言ってみればどこにでもいそうなサラリーマンである場合が大半だ。そして物語自体は大きくふたつに分けることができる。ひとつは主人公がその冒頭で、奇妙な出来事と遭遇し、ラストでそのオチがつく、という形のもの、もうひとつは、とくに何でもない日常的な出来事が続いていくのだが、ラストでそのすべてが非日常にひっくり返されてしまう、という形のものであるが、そのいずれの形をとるにしろ、これまでその短篇が築いてきた雰囲気なり印象なりが、わずかラスト数行によって、まるでコインを裏返すかのようにくつがえされてしまう鮮やかな手並みには、舌を巻くばかりだ。

 鮮やかな手並み、と私は表現したが、それはしかし、たとえばミステリーにおける謎解きのような鮮やかさとはまた少し異なったものだ。というのも、この短篇集におけるオチは、いずれも「事実はこうである」と明記されているわけではないからである。あくまで「もしかしたら、こうではないか」と匂わせるだけであり、物語もまたその時点で断ち切られている。それゆえに、読者はその先を想像力によっておぎなうしかないのだが、その想像力の向かう先は、すでに決定されてしまっている。

 そこにあるのは、人間が人間ではなく、他の動植物と同じレベルの生き物として、あるいはたんなる「モノ」として扱われている様子である。そして読者の想像力をそうした方向に向かわせるもっとも効果的な要素が「死」だ。人が死んだ後、その魂がどうなってしまうのかは、まさに神のみぞ知る、であるが、少なくとも死んだ人間の肉体は、たんなる「モノ」でしかない。それはまぎれもない事実であるが、人が意識するしないに関係なく獲得してきた「自分は人間である」という主観は、その事実をすんなりと受け入れようとはしない。

 こうした主観と客観、「人間」としての意識と「モノ」としての事実とのギャップが生み出す笑いと不気味さに訴えるブラック・ユーモアは、そのオチが鮮やかであればあるほど読者を居心地悪くさせるものだ。それは、他人の心を思いやるために存在する想像力の、一種の変異体だとも言える。「恐怖」という名の感情が生み出す想像力――人はいつか死ぬという、まぎれもない事実が、ときに思い出させる感情を、本書はたくみに操作し、ゆるやかな刺激を与えつづける。

 本書のラストに収録された「恐怖の研究」の中で、「作品の中に描かれていない、影の部分を読者に想像させ」ることで恐怖を引き起こすのが、本当の恐怖小説である、と述べている場面がある。この短篇集にある数々のオチは、完全な第三者から俯瞰的に眺めたときには滑稽でさえあるのに、そこから発生する想像力が「人間」という主観を刺激したとたん、居心地の悪い感情へとひっくり返ってしまうのは、人間としての想像力が、まさに自身の「モノ」としての部分を想像させてしまうからに他ならない。

 本書はけっして教訓的ではない。短篇の登場人物のような奇妙な出来事が、自分の上にもふりかかるかもしれない、などと考える読者はおそらくいまい。だが、本書が引き起こす想像力の不可思議な作用を考えるにつけ、自分も含めた「人間」としての意識とは、いったい何なのだろう、と考えずにはいられない。(2002.04.07)

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