【草思社】
『トナカイ月』

エリザベス・M・トーマス著/深町眞理子訳 
アーネスト・ヘミングウェイ賞受賞作 



 冷えこみの厳しい冬の夜に、ふと空を見上げると、想像していた以上に多くの星がきらめいていて驚くことがある。もちろん、都会で見る星空である以上、満天の星、という表現には程遠いものであろうが、それでも凍りつきそうなほど冷えた大気を通して見る月や星の輝きが、普段よりも何倍も澄み切ったもののように思えるのは、人間の五官が寒さという自然をより強く感じるからであろうか。

 加納朋子の『ななつのこ』では、主人公の女子高生がプラネタリウムを観に行くというシーンがあるが、そのアナウンスによると、百年や二百年程度では大して変わらない星空も、一万年単位になると、その配列も、北極星の位置さえも変化するという。そして、一万年後の未来にこの地球がどうなっているのか、ということは誰にも予想のつかない領域であるが、一万年前の過去であれば、私たちの遠い先祖がたしかにこの地球上に存在し、私たちと同じように、しかし私たちが今眺めているそれとは違った夜空を見上げていたのかもしれない、と想像することができる。

 悠久の時を超えて遥かな過去の世界、そしてその時代に生きる人々の生活を想像する、というのは、まさに想像力を持つ人間に与えられた最高の特権だと言えよう。本書『トナカイ月』は、今から二万年前のシベリア――広大なステップとツンドラ、森林を舞台とする氷河期を生きた狩猟民族たちの物語であるが、まず驚かされるのは、その登場人物たちの多さと、その親戚関係の複雑さであろう。

 今から二万年前という、おそらくは旧石器時代――当然のことながら、今のような科学技術の恩恵など何ひとつなく、大自然の脅威という言葉が現実のものとして人間たちをたやすく飢えに追い込み、あまりにもあっけなくその命を奪っていくなかで、人間たちは集団をつくることでなんとかその環境に順応してきた。そして自分がどの部族に属するのか、自分が誰の子供であり、誰の血を受け継いでいる身であるのか、という問題は、たんに生きるための問題であることを超えて、体の大きさや力の強さといった身体的特徴に変わるアイデンティティの拠り所であり、同時に同一集団内における序列を決定づける大切な要素にもなった。なぜなら、ただ生き残るという、それだけのことでさえ困難な世界において、何世代も前の先祖を遡ることができる、ということは、逆説的に一族の血を絶やずにいられるだけの知恵と力を有していた、ということを意味するからだ。

 それゆえに、本書の語り手である少女ヤーナンは、まず自分の両手を使って自分の属する集団と、自分の血族について語ることから物語をはじめる。人間として生きているうちは、男が肉――狩猟民族の生きる糧である主食を支配し、その代わりに女は血―― 一族の歴史を支配する。つまり、男と女が性交しなければけっして子供は生まれないにもかかわらず、生まれた子供は必ず母親の血族に属することになるのだ。そして死んで霊となれば、《死者の地》へおもむいて先祖の一人として属するか、あるいはシャーマンに仕える使い霊として空中にとどまり、一族の存続のために力を貸すことになる。彼女が生きるのは、そうした世界なのである。

 私はとくに宗教について詳しいわけではないが、おそらく原始宗教という形にすらなっていない、狩猟民族の精霊信仰的な考え方の根底には、「まぎれもない自分自身」という考え方はおろか、生と死、自然と社会、人間と動物といった、今では厳密に区切られていると私たちが思っている境界さえもがきわめて曖昧な形で結びついた、一面では未成熟な要素がある。それゆえに、本書では死んで使い霊となったヤーナンが、ほとんど何の葛藤もなくその境遇を受け入れ、さらにシャーマンたちの願いを聞きいれて、生身の動物に変身する、ということが、さもあたり前のことのように起こる。よくよく考えてみれば、語り手のヤーナンはまぎれもなく本書の世界に属している人間であり、彼女にとっては本書の中の世界こそがすべてであるのは間違いないことだが、驚くべきなのは、本書の書き手が本書のなかに、まったくといっていいほど「現代」からの視点を排除し、しかもそのことに成功している、という点である。

 たとえば、本書には雄大な自然の描写――とくに、その自然のなかで生きるさまざまな動物たちの生態が克明に描かれているのだが、ヤーナンたちにとっての「自然」とは、あくまで周囲にあたり前のように存在する場でしかなく、それが雄大であるとか、脅威であるとかいった考え方はしないし、そもそも「自然」という意識さえ頭にない。また、ヤーナンが経験することになる旅の物語も、彼女にとっては「ロマンチック」でも「ヒロイック」でもない、たんなる体験、積み重ねた時間のひとつでしかない。そうした呼び方は、現代に生きる私たちが勝手につけるものであって、太古に生きる彼女の思考には存在しない単語だからだ。
 それゆえに、ヤーナンにとっての「成長」とは、自分の体が「女」として性交できる体、子供を産み育てることのできる体へと変化することであり、「愛」とは性交することによる快楽、という捉え方であり、その基礎の上に、あくまで個人としての好悪感情や、彼女自身もとらえようのない感情の起伏――それが原因で、ヤーナンはしばしば一族の中でトラブルを引き起こすことになるのだが――が加わっていく。

 そうした、語り手の素朴な感覚でとらえたことのみに終始する、本書のような物語の形は、あるいは現代の、多分に読者に媚びるところの強い小説に慣れた人たちにとっては、何かものたりない、どこか味気ないもののように思えるかもしれないが、そうであるからこそ、本書は多くの物語の要素をはらんだ、どんな物語としても読むことのできる作品であり、原始時代の未成熟な、しかしどんな枠にもはめられない力強さをともなった物語として完成していると言うことができる。そして、私はあらためて感嘆せずにはいられないのだ。いったい、どうやったらここまで徹底して、二万年もの前の人たちの思考と同化できるのだろうか、と。

 現代に生きる私たちは、言葉の力によってさまざまなものを生み出していった。「自然」という言葉で自分たちを自然そのものから切り離し、「愛」という言葉で人間が本来持っている種の存続の本能を超えた感情の動きを定義づけた。そして言うまでもなく、科学技術の発達は私たちに数多くの恩恵をもたらした。だが、私たちが「人間」という言葉で自身を定義づけた結果、私たちもまた地球上の生物のひとつであり、自然の一部であるという、あたり前の認識に鈍感になってしまったように思えてならない。人間としての認識と、生物としての本能のせめぎあい――ヤーナンという少女が語る、太古の世界の物語は、そんな私たちにとって、夜空にある月や星を見上げたときにふと心に浮かぶ、説明のつかない感慨と同じものをきっと思い出させてくれることだろう。(2001.12.06)

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