【講談社】
『処刑前夜』

メアリー・W・ウォーカー著/矢沢聖子訳 

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 この世の中において、本当にとり返しのつかないことというのは、いったいどれくらいあるものなのだろう、ということをふと考えることがある。
 たとえば、仕事上の失敗はけっしてなかったことにすることはできない。たとえ、なんらかの手段によってうまく失敗を隠蔽することができたとしても、それで失敗をなかったことにできるわけではない。そして、そうした失敗を隠すための嘘は、死ぬまでつきつづけることができればいいが、もし発覚してしまったときにはさらにとり返しのつかない大きな負債となって当人にも、そして周囲の人たちにものしかかってくることになる。ときどきニュースの話題になる、有名企業の不祥事などを見ていれば、よくわかるはずである。

 壊れてしまった人間関係は、けっしてもとの形に戻ることはない。失くしてしまったものは、けっして元通りにはならない。過ぎてしまった時間を巻き戻すことはできないし、何かを選択すれば、必然的にその他の選択肢を捨ててしまうことになる。そんなふうに考えると、私たちの人生はとり返しのつかないことばかりのようにも思えるが、あとになって当時のことを振り返ってみたときに、何かを失くしたとばかり思っていたが、別の何かを手に入れていた、ということがあるのも事実である。

 壊れた人間関係は元に戻ることはないが、双方の努力しだいでは、また別の形の関係を再構築する可能性は残されている。だが、それは当人が生きていることが前提だ。本当にとり返しのつかないこと、それは、人の死である。殺人という行為は、その人に当然与えられているあらゆる自由を奪うことであるだけでなく、もしかしたらありえたかもしれない可能性をも奪い去ることであり、それゆえに、たとえそれが法で認められた死刑執行であったとしても、人の命を奪うという行為に耐え難い嫌悪をもよおす人々の気持ちは、わからなくはないのだ。

 本書『処刑前夜』に登場するモリー・ケイツは、雑誌「ローンスター・マンスリー」に雇われている犯罪ライター。もう二十年近くも犯罪をテーマにした記事を書きつづけてきた女性であるが、なかでも凶悪な犯罪者であるルイ・ブロンクのことについては、その生い立ちから彼がかかわった犯罪の様子、そして逮捕されてから刑が確定し、死刑囚としての現在にいたるまでをまとめたノンフィクション『にじみ出る血』を発表するほどののめりこみぶりを見せていた。そのルイ・ブロンクの死刑がいよいよ数日のうちに執行されるという重要な時に、かつて彼に妻を殺害された資産家のチャーリー・マクファーランドから、ルイ・ブロンクの記事から手を引いてほしいと懇願される。犯罪ライターとしてのプライドの高さもあって、応じることなど考えもしなかったモリーであるが、雇い主である編集長からの圧力を受けたり、犯罪を予告するかのような嫌がらせの手紙が舞いこんできたりといった事態に、自分の知らないところで何かが進行していることをモリーは感じるが、そんなさなか、彼女はチャーリーの新しい妻ジョージアが殺されているのを発見することになる。服を脱がされ、髪の毛が剃られた死体――それは、かつてルイ・ブロンクが行なった殺害の手口とまったく同一のものだった。

 まるで、モリーの著作からヒントを得たかのような連続殺人は、誰が、何の目的でおこなっていることなのか。もちろん、それも本書の大きな読みどころのひとつであることは間違いないが、それ以上に注目すべきなのは、死刑直前になってルイ・ブロンクが自白を撤回、チャーリーの前の妻の殺害に関して、その犯行を否認しはじめたことから起こる、モリー自身の葛藤の深さ、そして、犯罪ライターである以前にひとりの人間として、あくまで事件の真相をあきらかにしていこうとする、その痛ましいまでの気概の形にこそある。

 ルイ・ブロンクに対する死刑の判決は、ほかならぬチャーリーの前妻の殺害が決定打となっており、もし彼の言うことが真実であるとすれば、彼の判決は終身刑ということになり、彼はまさに無実の罪で死刑にされようとしていることになってしまう。そして何よりモリーにとって痛恨事なのは、彼女の書いた著作が、チャーリーの前妻の殺害を前提として書かれた嘘であることを、ほかならぬ著者自身が認めなければならないということだ。

 目を開けて、うす汚れたフロントガラスにうつった自分の顔を眺めた。――(中略)――なんということだ。どう見ても、これは証拠を握りつぶし、世間をあざむいても平気な人間の顔だ。
 土壇場になって、自分のけちな料簡で、犯してもいない罪のために死んでいく男を見捨てるような人間になりさがったのだろうか。

 ルイ・ブロンクが何人もの女性を殺害した殺人鬼であることはまぎれもない事実であり、そのどれをとっても死刑に値すべき罪とされてもしかるべきものである。そして、テキサス州は死刑容認の気風が強く、よほど強い証拠が提示されないかぎり、いったん下された死刑宣告がくつがえされることはありえない。死刑制度に対する是非もふくめて、本書にはじつにさまざまな、容易なことでは結論のつけられない問題が提示され、モリーを悩ませることになるが、たとえそのことによって自身の立場が不利になったとしても、自身の犯した過ちを過ちとして認めつつ、なお物事の真実を追求していこうとする姿は、たしかに読書の心を強く打つものがある。

 モリー・ケイツという女性は、世間一般で言われている良き女性像のなかにはけっして収まりきらない、非常にクセのあるキャラクターである。三回もの離婚歴をもちながらも、実の娘であるジョー・ベスとともにエアロビクスに励んだりといった、変則的な親子関係をつづけたり、別れたはずの夫に対して、今もなおときめきを感じてしまったりするモリーは、既存の価値観に左右されることのない、あくまで独自のものの考え方にしっかりと足をつけた生き方をすることができる強い女性であるが、いっぽうで、殺された自分の父親の事件――モリーが過去に身を削る思いで調査したものの、いまだにその真相をつかめずにいる事件の束縛からどうしても抜け出すことができずにいるという、弱い一面も持ち合わせている。そしてその過去こそが、モリーを突き動かす原動力となっている。

 父親の死は、彼女にとって「とり返しのつかないこと」である。そして、その「とり返しのつかないこと」にいつまでもとらわれているべきでないことは、頭ではわかっているものの、それでもなおそこから離れることができない業として、モリーのなかに居座っている。モリーにとって、「とり返しのつかないこと」=死とは、ある意味耐え難い恐怖でもあるのだ。だからこそ彼女は死刑という「とり返しのつかないこと」には反対の立場をとるし、もし少しでもとり返しがつくことであれば、そのために全力を尽くそうとする。その気概は、たとえ相手が外道な連続殺人鬼であったとしても、くつがえすことはできないし、またすべきでもないことである。

 本書の「訳者あとがき」によると、この物語のなかにたびたび出てくる「赤い叫び(レッド・スクリーム)」とは、「死刑囚がいよいよ最期のときを目前にしてあげる断末魔の叫び」のことだという。この単語は、ほかならぬ本書の原題にもなっているのだが、本書を最後まで読んだ方であれば、そのタイトルに特別な意味がこめられていることに気づくことになるだろう。弱い部分をもちながらも、それでもなお強く生きていこうとする、いわば女性を主人公にしたハードボイルドとも言える本書を、ぜひとも読んでもらいたい。(2005.08.13)

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