【春風社】
『愉しみは最後に』
−二人のひどく不器用な自殺志願者の往復書簡−

パトリス・ルコント、ダヴィッド・デカンウィル著/桑原晴行訳 



 以前、「人生に絶望したときに読む本」という企画を考えたことがある。本を読むという行為が、そこに書かれている内容が、もし人生に絶望して自殺しようとしている人に対して、なんらかの抑止力となりうるのであれば、その可能性を信じてみたい、という思いからはじまった企画であるが、じっさいに自殺しようとしている人をまさに目の前にしたときに、その行為を思いとどまらせるものがあるとすれば、それは本なんかではなく、人の言葉だろうと思っている。

 自殺することを最優先事項として動いている人が、わざわざそれを一時中止して、別の行為へと向かわせるのに、物質としての本は無力だ。それ以前に、本当に自殺するつもりであれば、すでにその行為におよんでいるはずであり、基本的には手遅れである。「人生に絶望したときに読む本」という企画名の裏には、「自殺したいと思うほど人生に絶望している、だがそれを敢行するには迷いがある人に読んでほしい本」という含意がある。そしてそこには、生身の人間の声にしろ、本という形で凝縮された書き手の言葉にしろ、もし生きてさえいればその言葉が届くかもしれない、というわずかな期待がある。

 今回紹介する本書『愉しみは最後に』を読んだときに、ふと上記の企画を思い出したのは、自殺しようとしている人に対して、はたしてどんな人の言葉なら届くのか、という命題がずっと引っかかっていたせいもある。そして本書はある意味で、その疑問に答えを提示してくれている。自殺しようとしている人に届く言葉、それは、「一度自殺したことがある人の言葉」である。

 サン=ルイ病院の救急外来に担ぎ込まれたふたりの男は、どちらも自殺を試みて未遂に終わった者たちだった。たまたま同じ病室に入れられたふたりは、お互いが自殺未遂者であるという事実を知って意気投合し、退院後も近況を知らせあおうという約束をかわす――本書は、そんな訳ありのふたりの往復書簡によって構成されている作品であるが、本書を特徴づける要素のひとつとして、このふたりの自殺未遂者、ふたりの子持ちの父親であるノルベールと、無職独身の三十歳ポールが意気投合した理由が挙げられる。彼らはふたりとも、次こそは自殺を成功させようという思いで、意見の一致を見たからこそ意気投合し、手紙のやりとりまではじめてしまったのである。

 賢明な読者であればこの時点で気づくことであるが、こうした彼らの行動はそもそも矛盾をはらんでいる。なぜなら手紙をやりとりするためには、何はともあれ生きていなければならないからだ。だが、彼らの目的は自殺することである。もし本当に自殺してしまったら、手紙をやりとりすることは叶わなくなる。そこでふたりのあいだで何が起こるかといえば、なんだかんだ理由をつけて自殺を先延ばしにしていくというある種の工作であり、また相手に対し、自分を差し置いて自殺しないよう牽制することである。

 自殺という、きわめて重いテーマを扱いながら、本書全体に漂っている雰囲気がけっして暗いものではなく、むしろそこはかとないユーモアさえ感じられるのは、このふたりの自殺未遂者の、自殺に対する積極性、その並々ならぬ熱意によるところが大きい。私はノルベールとポールに対して「自殺を先延ばしにしている」と上述したが、それはたとえば自殺することを躊躇しているからといった消極的なものではなく、より良い自殺をしようという意気込みゆえのものなのだ。本来なら、自殺は後ろ向きな行為である。それはそうだろう、自分から命を絶つというからには、それだけ深刻な状況に追い込まれていることが前提にあるはずである。だが、一度自殺を試みて失敗してしまったふたりは、次は失敗しないような、完璧な自殺をしようときわめて前向きな決意してしまうのだ。そしてそれは、ふたりの自殺未遂者が邂逅するという、ある種の奇跡がもたらした結果でもある。

 ふたりがそもそも自殺を試みた理由が、往復書簡のなかでいっさい語られていないのも、そうした理由による。「自殺する」という前向きな決意をした以上、その理由を問うことは無意味だ。本書の面白さは、手紙のやりとりをつうじて、彼らの前向きさがどのような方向にねじれていくのかという一点につきる。たとえば、最初のころは「今度は絶対に失敗しないような自殺方法を選ぼう」といった程度の意識だったのに、しだいに「どうせ自殺するなら、よりエコな方向を目指そう」とか、「これまで誰も思いつかなかったような、斬新でセンセーショナルな自殺をしよう」とか、さらには「死なない程度にありとあらゆる自殺方法を試みて、その考察を本にして出版しよう」というふうに、まるで未来への希望を語るかのようなやりとりが続いていくのだ。

 ありがとう。あなたが生きていることが分かって、また死ぬ意欲が湧いてくるよ。一人だと、今度は真面目に、もう一度自殺する勇気なんて絶対に起きない。だってぎりぎり譲歩して一度は自殺しそこなってもいいが、二度目はだめだろう。浴びるのは嘲笑とあざけりだけだものね。

 この上述の引用は、前の手紙で自殺してみる(ビニールを頭にかぶって)と宣言したポールが、結果として失敗したことを知ったノルベールの文面であるが、ここから見えてくるのは、ノルベールという人物の、二度目の自殺に失敗することへの怖れである。自分は一度自殺に失敗してしまった。次こそはなんとしても成功させなければならない。そのためには、より完璧な自殺方法を模索しなければならないという論法が、彼の自殺を先延ばしにしている要因にもなっている。いっぽうのポールのほうは、ビルの七階から飛び降りたのに、なぜか五階のバルコニーに落ちてしまうという前例が物語るように、どこか間の抜けた、いきあたりばったりに事を成す性格であり、ふたりの自殺をより明るいもの、建設的なものへと導いているのは、ポールのこの性格によるところが大きい。

 私たちにとって、死とは恐怖の対象だ。そしてその恐怖は、未知のものを恐れる私たちの本能に根差すものでもある。だからこそ私たちはふだん、死のことを遠ざけ、できるだけ考えないようにして生きているが、本書に登場するふたりは、一度自殺に失敗したという意味で、じつは死にこのうえなく近づいた人たちでもある。死とは何なのか、死んだら人はどうなるのか、誰もその正しい答えを知らない。もちろん、ノルベールもポールも知らない。だが、彼らは少なくともその死に対して、陽気に近づいていけるほどに、死を身近なものとしてとらえることができている。死を楽しむ――それは非常に倒錯した心境であるが、じつは本書のもっとも重要なテーマにもなっている。

 人はいずれ死を迎える。それはこの世でほぼ唯一と言っていい「絶対」のつく真実である。しかしだからといって、私たちの生がまったくの無意味であるわけではない。それと同じような論理が、本書のなかには生きている。はたしてこのふたりの自殺未遂者は、手紙のやりとりを通じてどのような結末へと読者をつれていこうとするのか、そして彼らが最後に結論づけた、「最後」にとっておくべき「愉しみ」とは何だったのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2015.03.10)

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