【河出書房新社】
『さかしま』

J・K・ユイスマン著/澁澤龍彦訳 

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 私たち人間は、この世に生を受けた時点から、なんらかの「社会」というものに属することを強制される。なぜなら、人間は残念ながら個人では無力で、厳しい自然を相手にたったひとりで立ち向かって生きていくには、あまりにも自然そのものから離れすぎてしまっており、私たちは必然的に、自分以外の大勢の人たちの力を借りなければ生きていけない生き物であるからだ。社会とは、大勢の人たちが共同生活を営むための集団であると同時に、その集団を維持していくための秩序そのものであると言うこともできるだろう。だが、その秩序というものが、なかなかの曲者なのだ。

 たとえば、あなたが男である、あるいは女である、ということに関して、社会ではとくに大きな問題はない。だが、仮にあなたが男でありながら男しか愛せなかったり、女なのに女しか愛せなかったりするような性質をもっているとすれば、それは「社会」的にはちょっと問題が生じてくるのが現状である。同性愛というものについて、最近ではずいぶんとオープンになってきているものの、今の社会にとってはまだまだ異端の範疇にある。言い替えるなら、同性愛はまだまだ社会的に受け入れられているわけではない、ということである。

 ゆえに、同性愛者にとって現代は、はなはだ「生き難い」社会環境下にある、ということになる。そして、もしこれが同性愛などではなくサイコキラーのたぐいであり、人を殺めることの快楽に歯止めがきかなくなったとしたら、それは間違いなく「反社会的」な存在として、社会そのものから排除されることになる。

 秩序と混沌、聖と俗、道徳と背徳――これらふたつの要素が対極にありながらも、お互いに切っても切れない関係性を有しているのと同じように、私たち人間もまた、理性と想像力をもつ社会的な生き物であると同時に、何もかもを秩序づけようとする堅苦しい社会的規範に対して反発し、インモラルな行為にどうしようもなく惹かれずにはいられない生き物でもある。今回紹介する本書『さかしま』は、世の中のすべてに嫌気がさしたある偏狭な貴族が、こうした社会的な影響力から遠く逃れ去り、自分だけの夢想の世界を築くためにパリ郊外にある小さな屋敷に隠遁する、という内容であるが、現代日本の視点から見るなら、あるいはそれは金持ちの道楽というよりも、むしろ「ひきこもり」に近いものがあるのかもしれない。

 その貴族デ・ゼッサントにとって、世の中のあらゆるものがことごとく彼を苛立たせる対象である。キリスト教の教義における狡知や屁理屈に腹を立て、貴族たちのつまらない虚栄心や儀礼ばかりのくどくどしさにうんざりする一方で、文学者たちの俗悪な拝金主義を侮蔑し、また学生たちのつまらない遊びに熱をあげている様子に辟易させられ、女たちとの逢瀬への情熱も、ついに飽きがきてしまったという彼は、隠遁先の屋敷を隅から隅まで自分の満足のいく――他人から見れば相当に珍妙なものに改造したうえで、その自分だけの世界にたったひとりで浸りこんでいく。その様子は、たしかに社会とのつながりを拒否して自分だけの世界に閉じこもってしまう「ひきこもり」とよく似ている。彼らに共通しているのは、自分が属する社会に対する違和感であり、また良くも悪くも世の中をうまく渡り歩くにはあまりにも不器用な点であるのだが、本書がきわめて特異なのは、「ひきこもり」にありがちな、自分が社会に受け入れられないという負い目、あるいは自分と関係している家族に対して迷惑をかけているというある種の罪の意識といったものが、ほとんど感じられないという点である。

 それは言ってみるなら、社会のなかにどうしても入りこむことができない、社会に対応できるよう自身を変えていくことができない自分に対して絶対的な自信をもっているか、いないかの違いでもある。デ・ゼッサントはあきらかに後者に属している。彼にとって、自分が社会に適応できないのではなく、社会が自分を認めない、ということなのだ。

 ゆえに、ほぼ確信的な「ひきこもり」である貴族のことを書いた本書では、彼以外の登場人物は――彼と積極的な関係を築こうとする、という意味での登場人物はいっさい存在せず、また社会と隔絶した状態にあるがゆえに、季節の移り変わり以上の意味をもつ時間の流れというものもなく、したがって物語の筋自体が消失してしまっている。そこにあるのは、どこまで行ってもただひたすら彼の偏狭な芸術観――自然と対極にある人工物に対する屈折した欲望であり、神の神秘性を汚すような陰惨で冒涜的な快楽への讃美の念だけであり、それは私たちが知る小説、物語の形とは、あまりにもかけ離れた姿を見せているのだ。

 疑いもなく、自然というこの老女は、すでに芸術家の優しい歎賞を受けるに値しないものとなってしまったのであり、今や人工が可能な限り、これに代るべき時代となったのである。

 このなんとも傲慢な心理――自分こそが世界の中心という歪んだ思考は、いかにも彼の異常な人間性を思わせるものであるが、しかしこうした心理は、けっして彼特有のものではなく、私たちが人間に属している以上、誰もが多かれ少なかれその心の奥に隠し持っているものでもある。たとえば、デ・ゼッサントはヤン・ロイケンが描いた宗教的狂気がもたらす陰惨な拷問絵図の数々を賞嘆しているが、そこには当時の世界の基盤をなすキリスト教が唱える博愛主義や清貧といった、そらぞらしい精神への叛逆の精神が垣間見られる。本書は言ってみれば、私たちがふだん生活するうえで目を背けてきた心の闇の部分に、あえて光をあてるかのような作品であり、当時本書がフランスで刊行されたときに起こったという囂々たる非難はむしろ当然のことであるが、私たち人間が、人間であるということを考えるためには、その理性の部分だけを強調するだけでは不完全であることを、世に知らしめた作品でもある。そういう意味では、まさに画期的な作品であったろうことは想像できる。

 今、世の中で問題となっているのは「ひきこもり」だけではない。少年犯罪の増加や異常な凶悪犯罪、自国にしか通用しない「正義」の名のもとにおこなわれる戦争や、その報復としての自爆テロなど、まるでこれまで巧妙に隠されてきた社会の歪みが、一気に噴出したかのような感のある現代であるが、あるいは今だからこそ、本書のような作品が注目されるべきなのかもしれない(2003.09.04)。

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