【新潮社】
『本格小説』

水村美苗著 
第54回読売文学賞受賞作 



 以前に読んだデイヴィッド・アーモンドの『闇の底のシルキー』のなかで、主人公の少年が、祖父から聞いた炭鉱の話を作文という形で書くという場面があるが、そのときクラスメイトのひとりが、こんな疑問を先生に投げかけたのを覚えている。話そのものは祖父が語ったもので、その少年のものではないはずだが、それでも彼の書いた作文は、彼の作品だと言えるのか、と。

 ひとつの物語が書かれるときに、物語そのものと、じっさいにその物語を創造し、言葉で書き出していく作者との関係性について、ふと考えることがある。言葉という道具で具体的な形をもった物語が誰のものであるかということであれば、それは作者のものである。たとえ、物語の原形がどこかにあるとしても、その原形を言葉をもちいて物語の形にととのえるという作業は、ひとえにその作者の力量にゆだねられており、その作業の過程においてかならず個人差が生じてくるものだからである。同じ風景画を描かせてみても、出来上がったものはどれひとつとして同じものがないのと同様、あるひとつの物語をどのように表現していくのかを考えるのは作者の仕事であり、そういう意味では、小説家というのは物語そのものを生み出すのではなく、形になっていない物語に自分色の形を与えることを生業とする者だともいえる。

 つまり、小説家とは常に翻訳者としての側面をもちあわせているものである。ゆえに、西洋の文化や技術、芸術、文学といったものを積極的に取り入れ、またそれまでの文語調の書き言葉を、より口語に近い形で表記していく言文一致の運動にも深くかかわることを余儀なくされた日本近代文学の担い手たちが、すぐれた作家でもあった、などとひとくくりにするつもりはないが、少なくとも彼らが、それまで日本にはなかったさまざまな概念を日本語、それも書き言葉としての日本語に翻訳していくことに意識的であったことだけはたしかである。それは急速に日本に浸透していく西洋の言葉との衝突、そしてそこから生じる日本語の大きなゆらぎによって、意識せざるをえなかったものであり、そういう意味で、彼らはたしかに小説家であると同時に翻訳家でもありえたのである。村上春樹の作品が日本の文学において高い評価を得ている背景に、彼自身がすぐれた翻訳家でもあるという要素があるのは、けっして偶然ではないのだ。

 本書『本格小説』に描かれているのは、東太郎という名の男のことである。貧しく不遇な幼年時代を経て日本から単身アメリカに渡り、ベンチャービジネスを成功させて巨万の富を得たという伝説の人物であり、まさに夢のようなアメリカンドリームの体現者である人物の半生――著者の言を借りるなら、まるで「小説のような話」を小説という形で起こした作品ということになるのだが、その肝心の東太郎が物語の主人公として登場するのは、じつは本書の中盤あたりになってからであり、ではそこに到るまでに何が書かれているかといえば、著者自身がなぜ本書を書くことになったのかを長々と説明した、「本格小説が始まる前の長い長い話」と称する、著者自身が主人公の物語なのである。

 いっけんすると、本書の主要なテーマである東太郎のこととはまったく関係ないように思える、著者自身による長い前置き――著者はそこで、本書のタイトルにもなっている「本格小説」の意味についても語っているのだが、「十九世紀西洋小説こそ小説の規範であるとする」ものであり、「何はともあれ作り話を指すもの」であるとするなら、その「作り話」の前に置かれた長い前置きの話はまさに「私小説」であり、「本格小説」と称するものとはむしろ対極に位置するものでさえある。じっさい、その前置きのなかには著者自身の生い立ちについても触れており、読者は東太郎の話の前に、著者の人生について聞かされているような気にさせられるのだが、じつはこのいっけん無意味のように思える長い前置きこそが、本書を真の「本格小説」たらしめているひとつの大きな要素として重要な役割をはたしている、ということをまずあきらかにしておかなければなるまい。

 なぜ、日本語では、そのような意味での「私小説」的なものがより確実に「真実の力」をもちうるのであろうか。逆にいえば、なぜ「私小説」的なものから距たれば距たるほど、小説がもちうる「真実の力」がかくも困難になるのであろうか。

「本格小説が始まる前の長い長い話」のなかで、著者はとある偶然から東太郎という人物の人生を知る機会を得た、と語る。具体的には、東太郎のことを幼少からよく知っている女性と出会い、彼女の話を聞いたという加藤祐介なる青年の口によってもたらされた話である。このいわゆる「知り合いの知り合いから聞いた」話という構造だけを取り上げるなら、そこにあるのはただの噂話と同程度のもの、都市伝説のごとく何の信憑性もないものでしかない。だが、著者自身が、いわば「私小説」の主人公として、まさにその東太郎の知られざる半生の実話と出会うまでのことを詳細に描いていくことによって、日本の近代小説が確実にもちうる「私小説」の「真実の力」を、「何はともあれ作り話を指すもの」であるという「本格小説」のなかに含めることに成功しているのである。

 しかも、その私小説の部分において、著者自身もまた東太郎と何度か出会っていることになっており、その後につづく、土屋冨美子の語りによる東太郎の物語と対を成す形をとっている。つまり、本書は土屋冨美子の語りによる東太郎の物語と、著者自身の語りによる東太郎の物語の二種類が、まるで互いのリアリティーを補いあうかのように機能し、その結果として、そもそも「作り話」であるはずの東太郎の物語が、まさに現実世界の出来事であるかのような「真実の力」を秘めることになるのだ。そう、本書は間違いなく『本格小説』、つまりは「作り話」を書いたものであるが、まるで小説家の人生を書いた「私小説」のような、たしかに血の通ったひとりの人間の圧倒的な人生が、そこに展開されているのである。

 じつは、本書『本格小説』というタイトルは完全なものではなく、中表紙を開いてみると、横書きの「本格小説」の上に「日本近代文学」という文字が添えられている。そして、本書で語られる東太郎の物語には、たしかに日本近代文学がもっている古き良きテイストに満ち溢れている。そのテイストの中心にあるのは、一種の身分制度ともいうべき「貧富の差」である。それも、貧しいゆえに無教養であり、また家庭環境に恵まれないがゆえに容易に犯罪行為へと駆り立てられていくような、切羽詰った底辺層に生きる貧乏人と、生まれながらにして高貴な家柄に生まれ、まるでそれがあたりまえであるかのように贅沢な暮らしをつづけることができる裕福な人たちとのあいだに横たわる、どうしようもないくらい広くて深い溝の存在が、本書にはたしかに感じられるのだ。それは言ってみれば、かつて西洋に存在した――あるいは今もなお根強く残っている貴族と労働者との身分格差、そしてその圧倒的不平等から生じる悲喜こもごもの人間ドラマを、そのまま日本という舞台に置き換えたものであり、そうした経済的格差を表面上は意識することのなくなりつつある現代日本では、むしろ古臭いイメージをもつものである。

 だが、古臭いからといって、そこで展開する人間ドラマに人の心を揺り動かすものが何もないかといえば、それは大きな誤りである。むしろ、人は皆平等であるという、じっさいにはけっしてありえない理想を描いたものよりも、不平等であるがゆえの不幸にこそ普遍的なもの、真実味といったものを感じとるものである。そして、それは東太郎とよう子との恋愛関係の行方――生まれついた家柄や境遇、生い立ちのあまりに大きな格差が、お互いに惹かれあうものがありながら真の意味で同じ世界を生きることができなかったという悲劇の形をとることによって、いっそうその真実味を増していく。

 東太郎の半生を見届けるようにして生きた土屋冨美子の語った話を加藤祐介が聞き、さらに彼の語った話を著者が聞く――たんにひとつの話を小説にしただけでなく、そうした過程をすべて含めて描き出された『本格小説』という作品は、まさにそこまでが「本格小説」というべきものであり、そういう意味で本書はメタフィクションの構造をとった小説だといえる。だが、人から人へと語り継がれてきた物語を、ひとりの作家が個人の人間としてではなく、まさに物語を語る主体として小説に「翻訳」していく、という形を経ることで、本書は東太郎やその周囲にいた多くの想像上の人たちを、あかたも過去のどこかに存在したかのようなリアリティーとともに現出させることに成功した。さらに、そうした技巧的な部分はもちろんのこと、二十世紀末の日本を舞台としていながら、日本近代文学がもつ雰囲気を色濃く描き出すことができる著者独特の文章の影響力もある。このような要素が重なり合うことで生まれた奇跡のような物語、それこそが、本書のもつただひとつの本質であるのだ。そして本書のことを言い表すには、ただそれだけで――本書がまぎれもない『本格小説』であるという本質だけで充分なのである。(2006.02.27)

ホームへ