【幻冬舎】
『天使の代理人』

山田宗樹著 



 妊娠した女性の胎内から胎児を堕ろすことの是非について考えるのは、とくに身体機能上、子どもを産むという体験を得ることのできない男性の立場では非常に難しいものがあるのだが、少なくとも中絶是非の問題を煮詰めていくと、母体の自由と胎児の命の、どちらにより重きを置くべきなのか、という点に集約されていくことになる。スタンリー・ポティンジャーの『第四の母胎』は、まさにアメリカの国論をまっぷたつにしてしまっている中絶是非の問題をテーマとしたミステリーであるが、人間が基本的に自由であり、同時に他人の自由についても自分の行使できる自由と同じくらい尊重すべきであると考えている私としては、あくまで個人の意見として中絶を容認――擁護とまでは言わないが――する立場をとることになるだろうと思っている。

 だが正直なところ、そんないかにも男の論理めいたものが、現実の中絶処理にたずさわっている人たちの――胎児の死をまのあたりにしなければならない人たちの心の叫びの前に、どれほどの力があるだろうか、という思いがあるのも事実である。私の論理にしても、胎児が人間ではないことを前提とするものであり、もし胎児を人間だと認めるのであれば、中絶は胎児の生きる自由を奪う、忌むべき行為にひっくり返ってしまうことになるからだ。

 胎児は女性の体なくしては生きられない。それは文字どおり、生物学的に生存できないという意味であるが、たとえ生物学的に生存していくことができる私たちにしたところで、いろいろな意味で、いついかなる時もひとりきりで生きていけるわけではない。ときに誰かを頼り、あるいは誰かに頼られているという思いがなければ、生きること自体に意味を見出せなくなってしまうのが私たち人間であり、この生きることの意味という点がもっとも端的に問われるのが、中絶是非の問題ではないかと思うのである。

「あなた、これまでに、百パーセント純粋な気持ちで、だれかから信頼されたことがある? 生まれたばかりの赤ちゃんはね、あなただけを信じて、あなただけを頼りに生きることになる。――(中略)――そんな人間関係は、ほかでは味わえない、絶対に」

 本書『天使の代理人』というタイトルの「天使」とは、言うまでもなく胎児や赤ん坊のことであり、「天使の代理人」とは要するに、自己主張の手段をもたない胎児たちの言葉を代弁する人、ということになる。本書に登場する桐山冬子は、とある産婦人科医院に二十年勤めていたベテランの助産婦であるが、子どもを産みたいという患者よりも子どもを堕ろしたいという患者のほうがはるかに多いという現実、そして時に、金のために妊娠二十二週目以降の妊婦の堕胎――法律では禁止されている堕胎――についても、人工死産という形で請け負っている病院側の方針に耐えられなくなり、病院をやめてフリーの助産婦としてはたらくかたわら、日本における人工妊娠中絶や人工死産の横行する現状を世に訴えようと、自身の体験を原稿に書き起こすことになる。ちなみに、『天使の代理人』というタイトルは、その原稿につけられたタイトルでもある。

 出版社への原稿の持ち込み、編集者から突きつけられる厳しい現実、大金を出しての自費出版、まったく売れずに返品されてくる本の山、という、当人の気持ちばかりが空回りしていく一連の流れは、まるで同著者の『嫌われ松子の一生』の転落ぶりを思わせるものがあるのだが、そこから地方新聞での紹介、テレビ番組への出演という行幸を経て、同じように中絶に疑問をもつ助産婦の仲間たちと出会った冬子は、中絶をしようとする患者たちに、中絶を思いとどまるよう説得するというボランティアまがいの活動の発端に手を貸すことになる。

 自己主張の手段をもたない胎児たちの言葉を代弁する、と先に書いたが、これはあきらかに胎児たちがひとつの人格をもつ人間であることを前提としているものであり、それゆえに本書の基本的な考えは、できるかぎり中絶は避けるべきである、という流れになっていくのだが、本書の大きな特長のひとつは、物語を桐山冬子ひとりを中心とした物語ではなく、さまざまな考え、さまざまな立場にいる女性たち数人のかかわりを描いたもうひとつの物語をうまく絡ませることで、ともすると強い主張となりがちである中絶是非のテーマのバランスをとろうとしている点である。

 結婚することを拒否し、キャリアウーマンとして働く日々に何か満たされないものを感じた結果、精子バンクから精子をもらって人工授精する、という手段でシングルマザーになることを決意する川口弥生、いったんは中絶を決意したものの、「天使の代理人」の言葉を受け入れて出産を決意する佐藤雪絵、逆にそのせいで病院側が取り違いを起こし、産みたいと思っていた胎児を堕胎させられ、同姓同名の雪絵に殺意をいだく佐藤有季恵、そしてそんな彼女たちとインターネットの掲示板で言葉のやりとりをすることになる、妊娠中絶体験者であり、また胎児に対して何の思い入れももたない麻矢――そこには、中絶是非はもちろんのこと、結婚すること、子どもを産むこと、子育てしていくことに対するさまざまな意見が錯綜しており、けっしてただひとつの主張を押しつけることのないよう配慮している部分がある。

 はたして、有季恵は本当に雪絵を殺してしまうのか、優秀な男の子がほしいと願う弥生の願いは叶うのか、中絶擁護の麻矢の真意はどこにあるのか、そして、冬子が中心となって全国に広がっていく「天使の代理人」の活動は、どのような展開を迎えることになるのか。物語としての展開にも注目すべきものがあり、タイトルからもわかるとおり、最終的には本書の求めるしかるべきテーマへとつながっていくことになる本書だが、妊娠、出産、堕胎に関する専門知識とともに、それぞれ考えも立場も異なる女性たちが、しかしそれぞれがまぎれもない女性として体験していく出来事としてそれらをとらえ、真剣に悩み、思い悩いながらも、なお生きていこうという思いだけは捨てずにいつづけるのは、それだけでひとつの奇跡のように思えてくる。

 本書に登場する女性たちの与えられた役割は、けっして軽いものではない。ともすると生きる意義さえ失ってしまいそうになるほどの逆境を経験し、女性だからこその理不尽な世の中に絶望しながらも、しかし本書が描く結末は、彼女たちにとってけっして暗く、未来の見えないものとはなっていない。そして、そのとき私たちは、ひょっとしたら、と思うのだ。ひょっとしたら、彼女たちのハードな人生のなかに、一筋の希望の光を照らし出しているのは、女性としてさずけられた命を育む機能であり、産まれてくる赤ん坊なのではないか、と。

 人はしょせん独りであって、自分以外の誰かのことも――そして自分自身のことでさえ、完全に理解することもできない孤独な生き物である。だが、それでもなお、人はひとりぼっちでありつづけることに耐えられるわけではないし、ときに誰かを必要とし、あるいは誰かに必要とされたいという願望を捨てることができずにいる。私は男であって、女の気持ちがわかるなどと言うつもりはないが、子どもを産むことができる女性の力は、そのまま人として生きる力にもなりうるのではないか、という本書のメッセージは、私には少しばかり眩しいと思わせるものがあったことをここに記しておく。(2006.07.30)

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