【ヴィレッジブックス】
『満ち潮の誘惑』

アマンダ・クイック著/高橋佳奈子訳 



 ひとりの人間の力というのはじつにちっぽけなものであり、できることなどたかが知れている。とくに、自身が逆境に立たされているようなときに、たったひとりでその逆境と立ち向かおうとするなら、想像以上の労力と忍耐とを必要とすることになる。あるいは、驚異的な精神力によってそれを個人で成しえてしまう人も、なかにはいるのかもしれない。だが、そんなのはあくまで例外であって、たいていの人は孤立無援のなかでいつまでも奮闘できるほど、強くありつづけられるわけではないのだ。

 疲れ果て、心も体も弱っているようなときに、もし誰かが――心から信頼できる誰かが、もしひとりでも傍にいてくれるのであれば、どんなに心強く、また励まされることだろう、と思うことがある。そのさいに相手のもつ地位や名誉、あるいは財力や権力といったものは、さほど重要ではない。大切なのは、自分のことを信じてくれている、自分が信じられている、という確信なのだ。そしてそれが感じられるかどうかの差は、このうえなく大きい。それこそ、その人の今後の人生を変えてしまうほどに。

 古き時代のイギリスを舞台とする本書『満ち潮の誘惑』は、言ってみれば男女の恋愛をテーマとしたロマンス小説に位置づけられる作品である。アッパー・ビドルトンの聖職者の娘であるハリエット・ポロメイはもうすぐ25歳になる淑女であるが、社交界や結婚、きらびやかな衣装や装飾品といった、当時の女性であれば大きな関心事であるはずのことにはとんと興味を示さず、むしろ付近の洞窟に潜り込んでは化石を発掘することに夢中になっているという、いっぷう変わったところのある女性である。ある日、近くの洞窟のひとつが盗賊たちの略奪品の隠し場所として悪用されていることに気づいたハリエットは、そこで自分が発見した歯の化石を心配するあまり、領主であるセント・ジャスティン子爵ギデオンに対処をお願いする手紙を出したのだが、そのギデオンは「ブラックソーン・ホールの野獣」と呼ばれ、過去に起こったある不幸な出来事が原因で人々から蛇蝎のごとく嫌われている人物でもあった。

 とにかく化石のこととなるといてもたってもいられなくなるハリエットの性格が、ふだんは人を寄せつけず、孤独な生活をつづけているギデオンの興味を惹き、お互いの出会いが実現することになる本書であるが、こうしたキャラクター設定が、ロマンス小説としての面白さを引き立たせ、またその出会いをごく自然なものとするために最大限活用されているというのが、大きな特長のひとつとして挙げられる。化石のことしか念頭にないような生活をしているハリエットにとって、ギデオンという男はこの地帯を管理している人、という以上の意味をもっていなかったし、それゆえに、彼に手紙を書き、しかるべき義務をはたすべきだと意見することもできた。それは、ギデオンの風評を知っている者にすればまずありえない選択肢なのだ。そしてそのことは、けっして望んだわけではない不名誉に傷つけられ、ほとんど一方的に貶められてしまったギデオン自身が一番よく知っていることでもある。

 つまりハリエットという女性は、ギデオンという名とともについてまわるさまざまな憶測や噂――それも、けっして良いものとはいえない噂に影響されない、ありのままのギデオンをとらえることができる立場にある。いっぽうのギデオンは、自身の悪評を知ってか知らずか、ほとんど一方的に呼び出しをくらうという、ひどく珍しい事態にふと興味をそそられる、という形で行動を起こすことができる。こうして、ロマンスを前提とする男女の出会いが無理のない形で実現する。だが、もちろん彼らのキャラクター設定が、それ以降の物語の流れのなかでも大きな影響をおよばすことは言うまでもない。

 ハリエットはあくまで自分で物事を決定し、自分で行動するだけの気骨と、理知的な判断をもつ女性だ。危険だから洞窟には近づくなというギデオンの忠告などはなから聞きはしないし、向こうが高圧的な態度をとればとるほど、それに対抗して反発せずにはいられない。ギデオンのもつ風評も、その巨大な体躯も、顔に残る大きな傷跡も、いつもなら相手を震え上がらせるはずなのに、なぜかハリエットには通用しない。本書のなかで、ふたりはしばしば意見が対立し、ギデオンが彼女を淑女として当然あるべきふるまいをさせようとすることに、ハリエットはあくまで自身の意見を押し通そうとする態度を崩さないということが起こるのだが、こうしたある種の対立がギスギスしたものにならず、むしろおノロケのようにさえ思えてしまうのは、ふたりがお互いに惹かれあっているということもさることながら、その言葉のやりとりがお互いを一個の人間として見ていることが前提となっているからに他ならない。そしてそれは、最初の出会いのときはもちろん、ふたりが婚約し、正式に結婚したあとでさえ変わらないことなのだ。

 本書はロマンスを中心とする作品であるが、一面ではギデオンにかけられた不名誉な事件に真実の光をあてるという、ミステリーとしての要素ももちあわせている。ギデオンがかつて婚約を約束した女性を孕ませたあげくに捨て、彼女を自殺に追いやったという噂、彼の兄であるランダルの死に関する噂、そして決闘でつけられたとされる顔の傷――あらゆる噂が彼にとって悪い方向に追いやるものばかりであるのだが、はたしてそれが本当なのかどうか、真実はどのような形であるのかという展開は、ギデオンとの婚約が決まったハリエットにとっても、けっして他人事ではない。ただし、その謎解きの原動力となるのは、謎そのものへの好奇心ではなく、ギデオンへの愛情から来るものである。そしてここでも、ハリエットの性格が生きてくる。それは、一度自身の愛情を確信した相手であれば、その人の名誉を信じきることができる強さとして、彼女の存在をよりいっそう輝かせることになるのだ。

 華やかな社交界の裏でささやかれるのは、きまって露骨で生々しいゴシップだ。それは見た目がきらびやかで優雅であるだけに、より陰湿でたちの悪いものと化してしまう。ギデオンひとりの力では、そうした風評を変えることはできず、逆にその風評どおりの人間になってやろうという自虐的な思いにとらわれてさえいた。だが、そこにハリエットがなかば強引に入り込んできた。そしてお互いの恋愛感情が、大きな力となってそれまでの運命を別の方向に切り開いていくことになった。本書のタイトルは、まさにそうした人間としての欲望を示唆するものであるが、ある意味で、男女の恋愛感情というものがこれほどまでに強い力として、物語全体を引っ張っていくことになるというのは、大きな驚きでもある。人が人を想う気持ちの可能性を知りたいのであれば、本書を紐解くことをお勧めする。(2009.12.01)

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