【光文社】
『ラットマン』

道尾秀介著 



 以前、システム関連の通信講座のひとつとして、情報解釈に関する講座を受講したことがあるのだが、そのなかでもとくに印象に残っているものとして、「だまし絵」を用いて人がいかに「思い込み」に支配されやすいかを示した例があった。念のため説明しておくと、「だまし絵」とは、たとえば有名な「ルピンの壺」のように、視点の置き方によっては「壺」にも見えるし、「向かい合った人間の横顔」のようにも見える、というたぐいの図形のことであるが、その講座では同じく有名どころである「妻と老婆」のだまし絵を取り上げたうえで、そこに何と何が描かれているか、という設問があった。

 過去にそのだまし絵のことを知識として知っていた私は、当然のように「若い女性」と「老婆」と答えたのだが、その設問の真意は、間違いなく正解だと思って答えた私の回答が、過去に与えられた知識によって、逆に独自のものの見方を妨げていることを示すことにこそあった。なぜなら、そのだまし絵の知識のない人間に同じ設問を与えたところ、そこに「ハゲタカ」や「ブルドッグ」といった絵を見出すという調査結果があるからだ。そして言われてみると、たしかに「妻と老婆」のだまし絵は、見方によってはそうした動物を描いているようにも見えてくるのである。私は「妻と老婆」のだまし絵の知識を持っていたがゆえに、その知識こそが絶対不変の正解だと信じて疑わなかった。だが、それはあくまで無数にあるものの見方のひとつでしかないのだ。

 事実はひとつだが、真実は無数にある、という言葉がある。それは、人間が主観や思い込みによって、同じものを見ていながらそこに見出すものがかならずしも一致するわけではない――場合によってはその人の意識が、そこにあるはずのものをなかったことにしたりすることさえある、ということを示すものでもある。私たちの主観は絶対のものではないし、私たちの記憶も私たちが考えている以上にあやふやで曖昧なものだ。そしてそれゆえに、私たちはしばしば自分の都合のいいものだけを信じ、自分が見たいものだけしか見なかったりする。今回紹介する本書『ラットマン』は、そんな私たちが陥りやすい「思い込み」を最大限利用することで、ミステリーとしても、また物語としても上質なものとして完成した作品だと言うことができる。

 自分と父は、これほどまで似ていたのだから。
 自分と父は、同じだったのだから。
 同じ方法で、同じ理由で、同じことをやったのだから。

 本書に登場する姫川亮は、社会人として会社に勤めつつも、高校のときに仲間と結成したエアロスミスのコピーバンド「Sundowner(サンダウナー)」でギターを演奏する青年である。姫川自身もふくめ、メンバー全員が社会人となってからも、回数こそ少なくなったものの定期的に練習をかさね、いきつけのライブハウス「グッドマン」でライブを行なうなどの活動をつづけてきたが、結成以来ずっと利用してきたそのライブハウスが今年いっぱいで店じまいになることを知り、期せずしてバンドの今後についても考えざるを得なくなっていた。

 バンドのメンバーは、姫川亮のほかにボーカルの竹内耕太、ベースの谷尾瑛士、そしてドラムの小野木桂。このうち小野木桂以外は結成当初からのメンバーである。以前は桂の姉であるひかりがドラムをつとめていたが、今はバンドからは抜けて、「グッドマン」のスタッフとして働いている。「グッドマン」は、姉妹ふたりにドラムを教えた父の知り合いが経営する店であり、家を出たきり行方知れずになっている父親との連絡がとれるかもしれない、という期待もあってのことだった。家庭を顧みないろくでないの父親のせいで、複雑な家庭の事情をかえているのが小野木家であったが、そういう点では姫川の家庭も、けっして尋常とは言えない過去をかかえていた。そしてそれは、今もなお彼に暗い影を落としている。

 ミステリーとしての展開を追うのであれば、中心にあるのはライブハウスにおける小野木ひかりの事故死、ということになる。姫川たちのバンドの練習日でもあったその日、ひかりはライブハウスの閉鎖にともない、倉庫で機材などの整理をしていたのだが、そのさいに誤って大型アンプの下敷きになった、というのがとりあえずの顛末である。だが、その不幸な事故にいたるまでに、さまざまな情報が伏線として語られている。たとえば、かつて姫川とひかりが付き合っていたこと、ひかりの妊娠と中絶の意思を伝えられ、その関係がうまくいかなくなったこと、桂とのあらたな関係、かつて癌で死んだ姫川の父親、そして、二十年以上も前にあった、姫川の姉塔子の死――そうした一連の要素が、ミステリーをミステリーとして成立させるために、どのようなつながりをもち、それらが私たち読者の意識をどんなふうに誘導しようとしているのかが、本書のキモとなる。

 過去における姫川の姉の事故死と、ライブハウスでのひかりの事故死とは、ひとつの対となる出来事だ。そして、本書を読み進めていくとわかってくるのだが、事故が起きた当初こそ事故死として処理された塔子の死は、しかし姫川がその後に気づいたり思い出したりした事柄を検討すればするほど、それが事故ではなく「事件」、それも、誰かの手で殺害されたという事実を指し示しているのだ。となれば、当然のこととして、ひかりの事故死についても同じような疑いが生じることになる。彼女は事故で死んだのではなく、何者かの意図で殺されたのではないか、という疑いが。

 ミステリーにおいて、事件の真相を読者から遠ざけるために、いかにもミスリードしやすい情報や描写をもちいて誘導をはかるというのは、このジャンルの小説では定番のものであるが、本書のミステリーとしての絶妙さは、姫川という物語の主体となる登場人物の立ち位置の絶妙さとつながるものである。彼は、ふたつの事件について、誰よりも深いかかわりをもつ人物だ。ゆえに、その真相についてもっとも有力な情報を握っているし、また事件の真相にもっとも近い場所にいる人物でもある。しかしながら、事件とのかかわりの深さというものは、事件の真相を見抜く力としてかならずしも有効に作用するわけではない。あたかもだまし絵における「妻と老婆」のごとく、事件とあまりに深くつながっているがゆえに、あるひとつの結論に思考が固定されてしまい、それ以外の可能性を知らず知らずのうちに排除してしまう。

 ふたつの事件が「対」であると、私は前述した。じじつ、そう思わせるための符合はいくつも存在する。そして私たち読者もまた、姫川の視点をつうじて、同じようにふたつの事件が「対」であるという刷り込みをされてしまう。まさにその思い込みが連鎖していくことによって本書のトリックは成立していると言っていい。

 殺意をもつことと、じっさいに殺人を犯すことのあいだには、大きな隔たりがある。だが、現実問題として殺人事件が起こったときに、その動機という点でまず疑われてしまうのは、被害者に殺意をもった人間であることは否定できない。私たちの生きる世界は、しばしばそうした思い込みによって突き動かされていくところがある。そしてそれが、人間が生きるということの悲劇でもあり、また喜劇でもある。はたしてあなたは、この「だまし絵」のような本書のなかに、どのような物語を読み解くことになるのだろうか。(2009.04.09)

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