【角川書店】
『ラス・マンチャス通信』

平山瑞穂著 
第16回日本ファンタジーノベル大賞受賞作 



 自分自身の存在と、自分が生きているこの世界とのつながりについて、ふと考える。この世界にとって、自分という存在はどのような意味があるのか、あるいは逆に、自分にとってこの世界はどのような意味をもつのか――そうしたことを考えてしまうのは、人がひとりでは生きていけないか弱い存在であるからであり、それゆえに私たちは、何かとのつながりを探し求めずにはいられない。だが、自我をもって生まれ、自分と他人とのたしかな区別を意識することを宿命づけられている私たちは、同時に自分が究極的にたったひとりの個体であるという事実から逃れることはできない。

 言葉を交わす、同じ時間を共有し、同じことを体験する、スキンシップをとって、相手の存在を感覚でとらえていく――それらはいずれも、自分が他の誰かとたしかにつながっているということをたしかめるための一手段にすぎない。だが、自分がたしかな自分自身であるという意識が、あるがままの世界をとらえる邪魔となる。私と相手は、同じものを見ている。だが、それは自分のこれまでの経験から相手もそうであろうと想像しているだけであって、もしかしたら相手は同じものを見ていても、自分と異なるふうにそれをとらえているのかもしれない。真実は永遠にわからないし、またたしかめるすべもない。相手とつながっているという感覚、コミュニケーションがとれているという想像を、あくまで信じるしかないのだ。それは、考えようによってはなんとも儚く、脆弱なつながりだとも言える。

 父はずっと同じ笑顔のままで、僕がなにかひとこと言うたびに、うんうんと宥めるようにうなずきつづけた。しかしそれはただうなずいているだけで、心からの同意を示しているわけでは決してないのだ。父はいつもそうだった。それはときとして、むっつり押し黙っているよりも、冷淡に見えることがあった。

 今回紹介する本書『ラス・マンチャス通信』について、何かを語るのは難しい。だが、それでもなお本書について何かを語ることができるとすれば、それは語り手と、彼が対峙している世界そのものとの、どうしようもないほどの乖離の感覚ということになる。自分の主観としての世界と、周囲にあるはずの世界そのものがどうしても一致しない、まるで、世界が自分を拒否しているかのような無力感と孤独感――そうした感覚というのは、誰もが多かれ少なかれもっているものでもあるのだが、本書が読者に対して指し示す乖離の感覚は、そこに読者が納得するだけの説明がいっさいないままであるがゆえに、よりいっそう切迫したものとして迫ってくることになる。

 たとえば語り手が「アレ」と呼ぶもの――家のなかを勝手気ままに徘徊し、家族の生活という秩序を決定的に破壊する存在であるものがはたして何者なのか、なぜ語り手の家族といっしょに暮らしていて、なぜその傍若無人な振る舞いに耐えなければならないのか、その背景となる事柄がまったく語られないままに、ある日姉に淫らな行為におよぼうとしていた「アレ」を、彼は怒りにまかせて蹴り殺してしまう。その結果、語り手は家族と離れ、施設で数年を過ごすという「罰」を受けることになる。

 あくまで語り手の一人称によって語られる本書において、「アレ」と呼ばれている存在はあたかも人じゃない怪物のように表現されているが、それはあくまで語り手の主観にすぎない。別の人の目でとらえたとき、たとえば「アレ」というのは脳に障害を負った兄であったとしておかしくはない。そうなれば、語り手のやったことは殺人ということになるのだが、同時に語り手自身についても、父や母は何ひとつ説明らしい説明はもちろん、殺人という事実(「アレ」が人間であったとして)そのものがなかったかのように振る舞いながら、それでもなお語り手を施設に送る。まるで、語り手と家族とのあいだに、けっして超えることのできない断絶があるかのような彼らの言動は、むしろ語り手自身こそが「アレ」なのではないか、とさえ読者に錯覚させるものがある。

 どちらにしろ、読者にわかるのは語り手の主観の世界のみである。そして、そこから垣間見える世界において、「アレ」もたしかにどこか普通ではないし、同時に語り手の両親もまた、どこにでもあるような家族のようでいて、どこか決定的なものが欠けているように見える。語り手である「僕」自身もふくめ、たしかなことが何も見えてこない世界――だが、にもかかわらずその細部においては執拗なくらいにリアルであるがゆえに、本書の世界はやっかいなくらいに読み手を惹きつけてしまう。

 私たちがよく知る日本のようでありながら、決定的に人とは異なる妙な種族の存在が、それこそ自然現象であるかのごとく認知されている世界の曖昧さは、私たち読者にとって、そのまま受け入れるしかない世界ではあるが、けっして読者に媚を売ることのないその世界のありようは、ある意味で読者のストレスでもある。そしてそのストレスは、そのまま語り手の感じるストレスにもつながっている。なぜなら、彼のなかにおいても、世界の乖離は日常のものとして彼自身をさいなんでいるからだ。施設を出た語り手は、いくつか仕事に就くものの、彼にもよくわからない理由で人々はいつも遠巻きにし、奇異の目で見ているという感覚がある。それでも、語り手は世界に自分を合わそうと努力はするのだが、その齟齬はどうしても埋めることができずに、ある日感情を爆発させてすべてを台無しにしてしまう。

 それは、本書を読むかぎり語り手が一方的に悪いという感じではけっしてない。むしろ、語り手が自分以外の誰かのために起こした行為が、なぜか有無も言わさず彼自身の責任にされてしまう、という不条理な状況が常にそこにはあるのだが、その原因がわからない以上、語り手も読者もそれをどうすることもできない。そして、だからこそそこに「呪い」という、ファンタジー的な要素がはじめて浮かび上がってくることになる。

 本書のタイトルにもある「ラス・マンチャス」とは、本書のなかに出てくる架空の映画のタイトルでもある。生まれつき額に大きな痣をもつラ・マンチャと呼ばれる男と、その子孫たちの物語である映画のなかで、ラ・マンチャの一族はやはり人から薄気味悪がられ、嫌われている。そして同じように世界から乖離し、激しい感情によってしか世界とかかわれない不幸な登場人物が、本書の中心にいる。はたして語り手に押された、彼自身には見えない刻印は、どのような形をしているのだろうか。そして彼はその遍歴の先に、どのような世界の姿を見ることになるのだろうか。(2008.09.29)

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