【集英社】
『遠き落日』

渡辺淳一著 



 この書評をご覧になっている皆さんは、野口英世という人物についてどのような印象をお持ちだろうか。私も小さい頃に野口英世の伝記については触れたことがあるが、貧しい家柄の生まれで、左手の不具を抱えながらも懸命に勉強をつづけた結果、世界的な学者として大成した偉人、自分の身の危険を省みずに、研究のため、病気の根絶のためにはすすんで伝染病の蔓延する現地に向かい、昼夜を問わず研究に没頭した、まさに医学の発展のために命をかけた男という、聖人君子のようなイメージが出来上がっている。だが、たとえばリチャード・モランの『処刑電流』に登場する「発明王」エジソンが、自分の発明した直流電気へのプライドゆえに、ライバルの電力会社のネガティヴキャンペーンを大々的に行なったように、伝記でその生涯が紹介されるほどの歴史上の有名人が、誰しも人間としても尊敬できる人物であったわけではない、というのは、彼らもまた私たちの同じ人間である以上、ある意味で当然のことと言える。

 伝記というのは、往々にして作中人物を過大評価し、その人物の都合のいいように書かれるものだが、野口の伝記ほど、その傾向のいちじるしいものはない。――(中略)――野口の一生も、伝記作家によって大きくゆがめられ、実際の野口とはまったく別の野口がつくられたのである。

 『失楽園』『愛の流刑地』など、センセーショナルな作品を書く渡辺淳一であるが、今回紹介する、世界的な細菌学者である野口英世の生涯をつづった伝記小説『遠き落日』もまた、前述の作品に勝るとも劣らない、センセーショナルな作品だと言うことができる。もちろん、恋愛小説と伝記小説という違いはあるが、既存の価値観や、私たちがあたり前だと思っているような事柄に対して疑問を呈し、そこに鋭く切り込んでいくという姿勢には共通したものがある。作者自身と思われる一人称の語り手が、野口英世の海外での足取りを追うという形ではじまる本書序章は、野口英世を最初から偉大な学者としてではなく、ひとりの人間としてありのままの姿を描き出していこうという、ひとつの方向性を示唆するものであり、それゆえに、彼の生前の業績の大半が、今では価値のないものであるという事実についても、この序章からすでに触れている。

 その結果として浮かび上がってきたのは、万事において「ほどほど」というものを知らない、つねに極端な方向に走っていきがちな野口英世像である。彼はたしかに頭がよく、とくに語学にかんしては短期間のうちに集中して勉強し、日常会話程度なら話すことができるほどの才能をもっていたし、また誰よりも努力をした人であることはたしかながら、それはあくまで彼の、一度何かに集中すると、他のことがいっさい手につかなくなるという情緒昂揚型の性格と、左手の不具や自身の生まれの悪さといったコンプレックス、そしておもに当時の日本の医学会にはびこっていた権威主義に対する激しい反発心から出てきたものとしている。

 じっさい、彼が細菌の研究にとりくむその姿勢は、まるで自分の体のことを度外視したもので、まさに二十四時間、ほとんど寝る間も惜しむほどの驚異的な集中力を発揮し、「人間発電機」とまで綽名をつけられるほどのものであったが、その集中力が研究以外の方向に向けられたとたん、人格破綻者といっていいほどの露悪さをさらけ出すことになる。

 その最たる例が、彼の金銭にかんするだらしなさだ。とにかく金を管理するということを知らない。あればあるだけ使ってしまい、そのたびに人から金を借りる。そして一度借りた金はほとんど返すこともない。自身の不具さえも材料にして哀れみをさそい、たくみに相手から金品を巻き上げ、そのことに卑屈になることも、また恥ずかしいと思うこともない。彼が後年、日本にほとんど戻ることがなかったのは、一部これらの借金の取立てを怖れていたからではないか、という話さえ、あながち嘘とはいえないほどの無頓着ぶりを、本書はあますところなく描いている。そういう意味で、本書はたしかにセンセーショナルな作品である。

 公私の区別がまったくつけられず、相手が根負けするまで自分の主張を押しつけるほどの自己主張の激しさをもち、また自分の才能にうぬぼれるところがあって、その才能のためなら他人は当然自分に援助をすべきだというエゴイスティックな一面を見せる野口英世は、もし彼が世界的に有名な細菌学者であるという事実がなければ、まさに幻冬舎アウトロー文庫にでも出てきそうな無法者の生き方である。そして、彼の生前に発表したおびただしい論文のほとんどが、現在では誤りのあるものとして否定されているという事実をとらえたとき、それでもなお彼に残された価値とは何なのか、という疑問に行き着くことになる。日本が誇る偉大な学者という虚飾をはぎとった、その後に残されたもの――それは、野口英世というひとりの人間の激しく力強い生き様に尽きる。

 人としてはどうしようもなく劣悪な一面を抱えつつ、そのいっぽうで、酒と女に身を持ち崩していく小説内の登場人物と同じ名前であるのが嫌だ、という理由だけで、最後には自分の名前を「精作」から「英世」に変えてしまうだけの不屈の執念の持ち主でもある野口英世の人生を見ていると、何かで大成していくには、なんであれ彼ほどのエネルギッシュさが必要なのだろう、と妙に納得させられるものがあるのも事実である。そしてなによりも、そんな毀誉褒貶の激しい生の野口英世を知る人たちが、それでもなお彼に並々ならぬ好意をいだいている、というたしかな事実が本書序章にはある。そこには、たとえ野口英世の真実の姿を――人としての弱さ、愚かさを描きながらも、なお人を惹きつけずにはいられない魅力があったのだと言えないだろうか。

 野口英世はかつて日本の紙幣の図案にもなったほどの有名人であるが、そんな彼のまぎれもない人間としての生き方に迫った本書は、たしかにこれまで数々の伝記によって築かれてきた彼のイメージを打ち崩すものである。だが、そんな野口英世の姿に、私たちはきっと幻滅よりも安心感を――彼もまたひとりの人間であったのだという意味での安心感をもたらすものであるという確信がある。(2006.08.17)

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