【早川書房】
『レインマン』

リアノー・フライシャー著/山本やよい訳 



 私たち人間がこの世界で生きていくというのは、ただ生物学的に生存していくということだけでなく、他の誰でもない、個人としての、ユニークであるはずの「私」が生きていると意識する、ということでもある。それが進化の過程で自我をもつにいたった人間の宿命であるが、個人がまぎれもない「私」であることを認識するためには、自分と比較するための対象、つまり他人が必要となってくる。仮に、もしこの世に生存する人間がたったひとりだけだったとするなら、その人にとって自分と他人の差異などまったく意味をなさず、それゆえに自分がまぎれもない自分であることを意識することもない、ということになってしまう。

 この世には私も含めて大勢の人間が生きていて、それぞれがそれぞれの生活を営んでいる。そして、私たちは意識するしないにかかわりなく、自分以外の大勢の人々と何らかの関係で結ばれている。それは、たとえば家族や血縁といった生まれつき決定してしまっているものもあれば、友人や師弟関係、恋人などといった、なんらかのアプローチを経て成立させていくものもあるのだが、こうした関係性をつうじて、私たちは同じ人間でありながら自分と他人との違いを意識し、自分が自分であることの差異化を進めていく。人と人との関係は、ときに当人にストレスを負わせるものとなったり、お互いに傷つけあうようなものとなったりもするが、そうした過程を経ることなしに、満足のいく自我を成立させることはできない。そういう意味では、私たちはたしかに誰かと出会うためにこの世に生まれてきたのだと言えよう。

 本書『レインマン』に登場するチャーリー・バビットは、カリフォルニアで中古車販売の会社を経営しているディーラーであり、これまでその甘いマスクと巧みな弁舌、そしてよく回転する頭脳でもって世の中をこずるく立ち回ってきた若者であるが、まさに社運をかけた大口の取引が思わぬアクシデントで滞ってしまい、彼自身が破産するかしないかの危機に直面していた。

 そんな彼のもとに、父親の訃報が届く。サンフォード・バビットは大富豪であったが、厳格でどれだけ努力しても満足しようとしないその性格にどうしても折り合いをつけることのできなかったチャーリーは、何年も前にその家から出て行ったまま、連絡をとることもなく今まで生きてきた。母はもうなく、今はバビット家の唯一の後継者となったチャーリーは、間違いなく父親の莫大な遺産を譲り受けることができるはずだった。だが、父親の遺言はそんな彼の希望を打ち砕くものだった。サンフォード・バビットの遺産は、チャーリーの知らない「匿名の受益者」のための信託基金に回されることになっていたのだ。

 はたして「匿名の受益者」とは誰なのか? 自分のものになるはずだった莫大な財産を横取りされたと受け取ったチャーリーは、死んだ父親への憎悪を「匿名の受益者」へと向け、その正体をさぐるべく動き出すことになるのだが、物語の冒頭から主人公を危機的状況に追い込んだうえで、それでもなお恋人であるスザンナとの逢瀬を楽しむことを忘れないチャーリーの、猛々しく利己的でありながら、それでもなお溢れてくる魅力的な性格は、物語に一種の緊張感と、その後の展開への期待感を高めることに成功している。だが、こうしたチャーリーの、良くも悪くもきわめて人間臭い性格の演出は、もうひとつ大きな意図をもつことになる。それが「匿名の受益者」――つまり、自閉症患者として長年入院生活をおくっているチャーリーの兄、レイモンド・ダビットとの対比という意図である。

 自閉症についてあつかった作品としては、たとえば浅倉卓弥の『四日間の奇蹟』をはじめとしていくつかあるが、おそらく本書ほど正確に自閉症患者の姿を描いたものは、他に例を見ない。レイモンドはまぎれもなくダビット家の長男であり、チャーリーの兄にあたる人物であるが、生まれついての障害のために、そうした人と人との関係性について認識する能力が欠如している。まさに文字どおり、自分だけの世界に閉じこもり、世界との関係をいっさい遮断してしまった状態にあるのだ。彼にできるのは、彼の外で起こるあらゆる出来事を、すべて等しい価値のある情報として記憶しておくこと。その記憶力の膨大さと正確さは特記すべき才能でありながら、彼自身のなかに、その才能を世界との関係に結びつけるという考えは永遠に存在しない。もちろん、莫大な財産を手に入れたとしても、それはレイモンドにとっては何の意味もないものである。

 長いあいだひとりっ子だとばかり思っていたチャーリーの前に、突如として現われた兄――だが、チャーリーにとってのレイモンドとは、たんに莫大な財産を相続している、しかしその使い道を自分で決定することのできない、言ってみれば究極のカモでしかない。しかし、亡き父の遺言を無効にし、レイモンドの後見人として収まるためには、彼がレイモンドと血のつながった兄弟であるという唯一の関係を利用するしかない。ここに、チャーリーのこれまでの生き方との大きな矛盾が生じることになる。

 父親との関係づくりに絶望したチャーリーは、これまでずっと誰の力も借りることなく、むしろ誰かを踏み台にしていくような生き方をつづけてきた。それは友人関係といった自ら成立させていく関係性はもちろん、親兄弟といった生まれつき決定してしまって自分では変えることのできない関係性さえも否定していくような生き方だった。ひっそりと兄を施設から連れ出し、なんとか兄の財産を横取りしようと画策するチャーリーだが、そのきわめて利己的な動機が、兄弟であるという血縁関係と深く結びつくものであるとわかったとき、そうした関係とは決定的に無縁の場所にいるレイモンドの立場がにわかにクローズアップされてくることになる。自分が永遠に孤独であるにもかかわらず、自分が孤独であることさえ意識することのない、けっして誰も手の届かない世界にたったひとりでいるレイモンドという魂の存在が。

 二人の違いは、レイモンドの欠陥が生まれつきなのに対し、チャーリーのほうはきびしい努力とたゆみなき訓練によって、その欠陥を身につけた点にある。レイモンドが他人とつながりを持てないのは――(中略)――意思の疎通をはかるピースが一個欠けているからだ。チャーリーが誰ともつながりを持てないのは、無理にでもその方法を忘れようと努力したからだ。

 チャーリーとレイモンドとは、人物像としては対極に位置する関係にある。だが、絶対的な孤独のなかにいる、という意味ではふたりは似たもの同士でもある。そしてチャーリーがレイモンドの存在を知ることで、まるで鏡を見るかのように自身の孤独の存在にも気がついてしまったのに対し、レイモンドが自身の孤独を認識することは永遠に訪れない。本書の最大の特長は、レイモンドという絶対的な孤独が、チャーリーの陥っている孤独を否応なく突き崩していく過程にこそある。それは、チャーリーがまぎれもない人間――感情をもち、脆くも弱くもある人間であることこの上なく認識する過程でもある。だが、レイモンドにはそうした機会はけっして訪れることはない。そしてその現実をこのうえもなく効果的な方法で読者の心に訴える物語こそが、本書であるのだ。

 本書のタイトルにもなっている「レインマン」とは、小さい頃にチャーリーが心に思い描いていた架空の友だちの名前であるが、そのかすかな記憶は、おもいがけずチャーリーに家族の絆について思いをあらたにする機会を与えることになった。いつしか相続する金のことよりも、たったひとの兄であるレイモンドとの絆をつなごうとしていくチャーリーの思いは、はたしてレイモンドに届くのか? その結末については、ぜひとも本書を読んでたしかめてもらいたい。(2006.05.21)

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