【光文社】
『ラガド』

両角長彦著 
第13回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作 



 その場の雰囲気についつい流されてしまう、という経験はおありだろうか。たとえば、コンサート会場やお祭りなどで誰もが興奮しているようななかに放り込まれると、コンサートや祭そのものにさほど興味がなくても、周囲の人たちの興奮が伝播して妙な高揚感を味わったりするようなことは、誰でも多かれ少なかれ経験のあることだろうと思うが、主婦や高齢者をある会場に集めたうえで、「買わなければ損」という雰囲気をなかば人工的につくりだし、高額商品の購入を契約させてしまうSF商法のような手口が実在することを考えると、その場の雰囲気――あるいは「空気」とでも呼ぶべきもののある種の怖ろしさ、得体の知れなさが、あるいは実感できるかもしれない。

 けっして誰かに命令されたわけではない。あくまで自分自身の意思において、自分が何をすべきなのかを選択していると思っていながら、じつはその場の雰囲気に流されているにすぎないという状況は、それまでたしかにあるものとして認識していたアイデンティティが、じつはこのうえなくあやふやで、頼りにならないものであることを露呈するものでもある。人はときに、容易にその場の「空気」に飲み込まれ、ふだんであれば到底できそうもないような行為に走ってしまったりする。そのとき、自身の行動がまぎれもない自分自身の責任としてのしかかっているという認識が、はたしてどれだけその当人のなかにはたらいているだろうか。

 都内にある私立瀬尾中学校に侵入した中年男性による、女子生徒の刺殺――今回紹介する本書『ラガド』は、そんないかにもセンセーショナルな事件の真相に迫っていくという内容であるが、警察による非公式の再現実験という形からはじまって、事件現場となった2年4組の教室と当時の生徒の動きを示した図を用いて何度もくり返されることになる事件の再現実験は、しかし警察の思惑やテレビ局の偏った正義感といったものによって二転三転していくことになる。本書の大きな特長のひとつとして、殺人事件にかんする情報を効果的に切り出していくことによって、事件の全容がいかようにも変化していくということ、またその変容そのものが、まるで物語をつむいでいくかのような演出を成しているという点が挙げられる。

「ちょっと、ちょっとだけ待って。(女子生徒に)君、いまなんて言った?」
「生徒から離れて、ここから出てください」
「本当なんだね、あの子が――」
「出ろって言ってるだろ!」
「わたしをかわりに――そう言ったんだね。刺されながら」

 現行犯逮捕された無職の男、日垣吉之は毎日のように校舎内を徘徊していた。被害者の藤村綾は責任感の強い子で、そのたびに彼を教室の外に連れ出すという役目を進んで受けもち、事件当時も刃物を手にした犯人に向かっていったという生徒たちの目撃情報がある。いっぽうの日垣吉之は、二ヶ月前に娘の里奈を亡くしていた。校舎の屋上から飛び降りての自殺であり、残された遺書らしきメモから、娘はクラスぐるみで――つまりは2年4組のクラスメイトから精神的虐待を受けていたという妄想にとらわれていた。中学校の校長は「いじめの事実はなかった」という発言に終始し、クラスの担任である島津聡子は、事件が起こるまで、そんな日垣を徹底して無視するという姿勢をとりつづけていた。

 こうして事件の概要とその背景にあるものを説明していくだけでも、現代社会のかかえるさまざまな問題が見え隠れしているのがわかってくるのだが、本書を読み進めていくと、今回の事件のキーパーソンが次々と移り変わり、それとともに事件の性質もガラリとその姿を変えていくのが見えてくる。最初のキーパーソンは、当然のことながら事件の犯人である日垣吉之であるが、彼は事件当時泥酔状態であったうえに、事件を起こしたときの記憶を失っていた。だが話が進むにつれて、クラスのボスだと称されるあるクラスメイトや、ある実験をおこなっていたクラス担任の島津聡子へと焦点が移り、そのたびに意想外な事実が明らかにされていく。このあたりのカードの切り方の巧みさについては上述したとおりであるが、この作品の隠れたもうひとつの焦点として、被害者である藤村綾の存在があることを忘れてはならない。

 興味深いことに、今回の殺人事件の真相が二転三転するたびに、彼女の人物像は大きくブレていくことになる。あるときは自分の身を呈して犯人に立ち向かい、クラスメイトを逃がそうとして犠牲になった立派な心の持ち主として持ち上げられたかと思うと、日垣里奈を自殺に追い込み、いるはずのない虐待の犯人探しを手伝うフリをした卑劣漢へと貶められていく――警察による事実の捏造や、クラスぐるみのいじめを隠蔽しようとする学校、生徒の保護者たちの事なかれ主義に対する世間の風当たりが強くなり、そのたびにうろたえ、自己保身へと走る大人たちのいささかみっともない姿がさらけだされる本書において、藤村綾という存在そのものが、言わばひとつのミステリーとして成立しているところがある。

 本書の中心にあるのはあくまで殺人事件であって、そこに登場する人たちはその事件を構成する要素のひとつでしかない、というある種の徹底した客観性を貫こうとしているところがあるのだが、そんななかにあってひときわ異彩を放っているのが、被害者であり、今はもう存在しない藤村綾なのだ。いつもクラスのまとめ役として、人の嫌がることも進んでやってきた彼女は、はたして事件当日に何を思い、何をやろうとしていたのか――その真相についてはぜひとも本書を最後まで読んでたしかめてほしいところだが、ひとつだけ言えるのは、本書のなかにある事件への徹底した客観性は、そのまま藤村綾の視点としてもつながっているということである。

 わたしをふくめて生徒というものは、圧倒されるべき時には圧倒されるべきなんです。静かにしろと言われたらぴたっと黙るべきなんです。そうできるだけの力を誰かが持つべきなんです。誰かが。

 誰かに命令されて何かをやらされるというのは、それが嫌な人間だったり、命令の内容が理不尽なものであればあるほど、それに反発する心も強くなるし、効率だって悪くなる。だが、たとえばエレベーターのなかに入ってくると、それまで喋っていた人たちが急に黙り込んでしまったりするように、ある特定の場において、特定の行動をとらずにはいられない「空気」というのはたしかにある。はたして、あなたの日々の生活のなかで、まぎれもない自分自身の選択した行動だと自信を持って言えるものが、どのくらいあるだろうか。(2010.05.22)

ホームへ